大扉稲荷社・影清塚

マーカーは影清塚です。

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大扉稲荷社
[男山山下の石清水八幡宮二の鳥居をくぐり、通称「七曲がり」と呼ばれるジグザクの石段を過ぎると「影清塚」のある分岐点にさしかかります。右の間道は泉坊・松花堂跡、そして石清水杜に通じる道(祓谷道または東谷道という)です。この分岐点の左側、朱塗りの鳥居をもつ社が「大扉稲荷社」です。
 その昔、このあたりには狐の住む穴があって、柴草を刈りに来る人々にいたずらをするので、小祠を建てて崇めたという伝説が残っています。そして文政12年(1829)に至って、杉本坊親杲(すぎのもとぼうしんこう)らが泉坊と相談、八幡宮に願い出て、現在の場所にあった荒垣を取り除き、鳥居、玉垣を新たに作り、社を移して改築したと伝えられています。
  その建立には、次のような話が伝えられています。
それは、当時、今に言う宝くじが流行していました。この稲荷社に祈った人が、その霊験によって富を得たことが伝わると信者を増やし、その信者の寄進で建立になりました。しかし、その祭神の名を知る人がなく、古記にも伝えられていませんでした。そこで、当時京都七条高瀬川傍で稲荷を信仰し、神降しや吉凶占いなど神告を業としていた石井巳之助という人によって、「我は相槌稲荷の子、名を登毘良明神と申す」とのお告げを受け、その神の名を知ることになりました。
こうして下京にはこの大扉稲荷社を信仰する人が多く、ここへ詣る人が多かったと「男山考古録」は伝えています。   (「ぶらり38 大扉稲荷社」より)]

影清塚
[表参道と石清水社の方面へと向かう道の分岐点に位置し、祓谷という谷筋の流れが向きを変える曲水の所に当たり、その谷を隔てた向かい側には、かつて祓谷社というお社があり、現在は山上の祓所で行われている6月30日の夏越大祓と12月31日の年越大祓もここで行われていました。
かつて当宮へ参詣する人々は、この清水に己の影(姿)を写して心身を祓い清め、長く長く幾度も曲がる参道を上がるうちに心を整え、山上の本宮への参拝に臨んでいました。  (「石清水八幡宮 – 影清塚」より)]

石清水八幡宮境内図(拡大元図)

カメラ南南西方向・左が大扉稲荷社、右が影清塚です。