後村上天皇行宮跡碑

マーカーは後村上天皇行宮跡碑です。

後村上天皇行宮跡碑
[現地は、善法寺家とともに石清水八幡宮護国寺の要職を務めた石清水祠官家・田中家の跡地。観応の擾乱の際、石清水別当田中定清南朝後村上天皇に味方し、田中家が後村上天皇の行宮となったためにこの碑があります。
正平7年(1352年)閏2月19日より、同5月11日まで、後村上天皇が行宮を置いていたとされる跡地(石清水別当・田中定清邸)。
昭和3年、当時の石清水八幡宮司・田中俊清氏によってこの碑が建てられました。  (「後村上天皇行宮址碑~八幡の戦い|古都の礎」より)]

後村上天皇八幡行宮跡 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向が後村上天皇行宮跡碑です。

八幡の戦い
[八幡の戦い(はちまんのたたかい、男山の戦い、男山八幡の戦いとも)は、南北朝時代観応の擾乱における合戦の一つ。1352年(南朝:正平7年/北朝:文和元年)閏2月から5月にかけて、山城国京都から男山八幡(京都府八幡市石清水八幡宮)において、後村上天皇南朝方の軍勢と、足利義詮北朝方の軍勢との間で行われた合戦である。
観応の擾乱により、北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂した。直義派による高師直高師泰兄弟の謀殺後も対立は止まらず、1351年(南朝:正平6年/北朝:観応2年)直義は自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸信濃を経て鎌倉に入った。尊氏は直義討伐を優先し、南朝と和睦して後村上天皇から足利直義・足利直冬追討令を得た。尊氏は、嫡子足利義詮を京都に残し、東海道を東進した。
尊氏の南朝へ降伏したことにより北朝の崇光天皇は廃され、年号も北朝の「観応2年」が廃されて南朝の「正平6年」に統一された(正平一統)。
1352年(南朝:正平7年/北朝:文和元年)2月、鎌倉で足利直義が急死。北朝方の混乱を見た北畠親房は、正平一統を破棄。尊氏の征夷大将軍を解任し、東西で呼応して京都と鎌倉の同時奪還を企てた。
閏2月20日、京都の南朝方楠木正儀北畠顕能は、足利尊氏不在の隙を突き、急遽和議を破り足利義詮へ攻撃を開始した。不意を突かれた北朝方は苦戦に陥り、七条大宮の戦いで細川頼春が戦死し、足利義詮は近江に逃れた。南朝方は南北朝分裂以降初めて京都を奪回した。北朝の光厳上皇光明上皇崇光上皇、直仁親王は南朝方に捕われ、賀名生へ移された。後村上天皇は行宮を賀名生から河内国東条(河南町)、摂津国住吉(大阪市住吉区)、さらに山城国男山八幡(京都府八幡市の石清水八幡宮)へ移した。なお同じ時期、関東でも新田義貞の遺児新田義興新田義宗らが征夷大将軍に任じられた宗良親王と共に挙兵し(武蔵野合戦)、一時的に京都・鎌倉の双方が南朝方の支配下となった。
近江へ逃れた義詮は、各地の守護の力を結集し、勢力回復を図った。佐々木道誉細川顕氏土岐頼康らに加え、足利直義派だった斯波高経らも義詮の味方となった。勢力を盛り返した北朝方は3月15日に京都を奪還。続いて、後村上天皇の仮御所のある男山八幡を包囲した。
北朝方は守りの固い男山八幡に対し、包囲し兵糧攻めを行った。包囲戦は約二ヵ月におよび、飢えに苦しむ南朝方から熊野湯川荘司等、北朝方へ寝返る武将も現れた。後村上天皇は5月11日に側近とともに包囲を脱出し、男山八幡は陥落した。  (wikipedia・八幡の戦いより)]