神應寺

マーカーは神應寺です。

神應寺(じんのうじ)
[神応寺(じんのうじ)は、京都府八幡市にある曹洞宗の寺院。山号は糸杉山(しすぎさん)。本尊薬師如来石清水八幡宮のある男山の北側山腹に位置する。この寺は、貞観年間(859年 – 877年)行教によって創建されたと伝えられる。当初は四宗兼学の寺院であったが、室町時代後期に禅宗寺院となる。慶長年間(1596 – 1615年)、尾張国中島郡下津村(現・小牧市)の正眼寺末寺として再興された。明治神仏分離以前は、石清水八幡宮の神宮寺であった。
境内
本堂開山堂、禅堂、書院、庫裏鐘楼などがあり、やや離れて奥の院の杉山谷不動がある。
●本堂 – 寛政7年(1795年)の再建。wikipedia-photo

●書院 – 様式から寛永年間(1624 – 1643年)の建立と推定される。伏見城の遺構とも伝えるが定かでない。襖絵は狩野山雪の作と推定される。
●鐘楼 – 元禄5年(1692年)の棟札がある。  (wikipedia・神応寺_(八幡市)より)]

[石清水八幡宮一の鳥居右の道沿いにいくと、神應寺の山門が見えてくる。貞観2年(860)、石清水八幡宮を勧請した行教建立の寺で、はじめは「應神寺」といったが、天皇の号をはばかり「神應寺」と改めた。
文禄年間(1592-1596)、征韓の役にあって豊臣秀吉は、石清水八幡宮に詣で、軍の先鋒に神官を望んだが、神社側は恐れて命に服さなかった。秀吉は機嫌を損ねたが、神應寺住僧の機転で、征韓の首途にはまず應神天皇の御寺に参詣すべきと進言。秀吉は機嫌を直し、寺領200石を寄進した。
本堂西側の小高い墓地には、江戸時代の豪商、5代目淀屋辰五郎が眠る。大阪の「淀屋橋」は淀屋が架けた橋である。「一刻の商いが80万両に及ぶ」という米市を初め、江戸幕府西国33ヵ国に総額15億両という大名貸しを行い、その威力は百万石の大大名も凌ぐ前代未聞の大豪商であった。  (「一般社団法人八幡市観光協会 – 仏閣」より)]

[八幡神を男山に勧請した行教律師が、貞観2年(860)に創建した。重文の行教律師座像、豊臣秀吉の衣冠束帯の像が安置されている。書院は伏見桃山城の遺構で、襖や杉戸には狩野山雪筆による「竹に虎、御所車」などが描かれている。また、江戸時代の豪商・淀屋辰五郎や二宮忠八などの墓がある。  (「神應寺(じんのうじ) | 八幡市役所」より)]

神應寺 – Google Map 画像リンク

神應寺山門(Google Map 画像)

神應寺鐘楼(Google Map 画像)

神應寺本堂(Google Map 画像)

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *

*