マーカーは阿弥陀寺です。
阿弥陀寺(法然松碑)
[「摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「8巻51・法然松 阿弥陀寺」
法然松(ほうねんまつ) 脇浜の磯辺にあり。
伝へ云ふ、承元年中、法然上人讃州より帰洛の時、この地に泊まり、植ゑ置きたまひしとぞ。
古松は枯れて、株三丈ばかり遺る。側に植ゑ継ぎの松あり。枝葉繁茂して蟠竜のごとし。
ことにこの地風景佳なり。 (「法然松 – FC2」より)]
[阿弥陀寺(あみだじ) 神戸市中央区脇浜町2-5-13
浄土宗 栽松山
本尊:阿弥陀如来
阿弥陀寺(あみだじ) 脇浜の村中にあり。栽松山と号す。浄土宗。本尊阿弥陀仏。開基は法入法師なり。
法然上人帰洛の時、この浦人富松右衛門が家に宿らせたまひ、専修念仏の弘法を勧化ありて小松を海畔に栽ゑたまひ、われ本願末代に栄えなんしるしにといひたまふ。
かの松右衛門も御弟子と成り、法入と改名し、我が宅を寺となし、阿弥陀寺と号し念仏の道場となしぬと寺記に見えたり。
寺の什宝に山越鉦といふあり。法然上人、船中にてならしたまひ、念仏修行したまふ。 その音、山を越えて殊勝に聞こえしより名とせり。
この寺正しき旧跡なれぱ、ニ十五霊場の中に入るべきに、除かれし事不審なり。後世の所造か。後考をまつなり。 (「阿弥陀寺 – FC2」より)]
[承元元(一二〇七)年、四国の讃岐に流されると中、都から旅して来た法然上人は、脇浜の富松右衛門の家にとまっていきました。上人から仏教の教えを聞いた右衛門は、上人をとても尊敬しました。
承元五(一二一一)年になって、上人は許されて四国から都に帰ると中、また脇浜に右衛門の家をたずねました。近くの人々も上人の話を聞きに集まってきました。
この時、深く心を動かされた右衛門は、とうとう法然上人の弟子になり、自分の家をさし出して、お寺にしてしまいました。これが脇浜にある阿弥陀寺の起こりだと伝えられています。この時、法然上人は、浜辺に村人を集めて言いました。
「この浜辺に、三本の松の枝を束ねて植えましょう。この松が末永く青々としげるように、私の教えも長くずっと信じられていくでしょう」
村人はこの松を法然松とよんで大切に育てていきました。しかし、安永年間(一七七二年~一七八一年)に松はかれ始めました。
そのころ、この脇浜に道喜の夢の中に、ふしぎな老そうが現われ、「法然松が枯れようとしておるが、あの松の木で私の像をほってくれれば、末永く人々を救えるのじゃが・・・」と語りました。
夢からさめた道喜は「あれは法然さまだった。さっそく像を作って、おまつりしなくては」と村人にこの夢の話をして、法然像を作り、浜辺にも若い松を植えついで法然松を生まれかわらせたということです。 (「神戸市中央区:第6話 阿弥陀寺と法然の松」より)]
「9巻47・敏馬浦法然松.JPG」
[図会は敏馬浦の地引網漁の模様ですが、右ページ砂浜に法然松が描かれ、その右後ろに阿弥陀寺と記述されています。]
阿弥陀寺前のカメラです。