高天寺橋本院

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高天寺橋本院
[養老2年(718年)高天山登拝の為この地を訪れた行基菩薩が霊地であることを感じ一精舎を建て一心に冥応し祈った。
或る日の事、念想中に容体より光を放ち香気漂う十一面観音菩薩のお姿が現われこの霊応に深く感じさらに修業を続け、困難と苦悩に屈することなく祈念し続けた。人々は、この姿に高天上人と呼び尊敬した。
元正天皇(715から724年)はこの功徳を仰いで、又高天の霊地たるを知り、寺地として与え、十一面観音菩薩を刻むことを許された(開基)。以来参拝する人々が後を絶たぬ程盛大かつ繁栄を極めた。又天平17年(745年)には聖武天皇(724から749年)発病の折病気平癒祈願をし、天皇より「宝宥山」の山号をいただくことになる。
鑑真和上(735年来日)を住職に任命されるなど、孝謙天皇(749から758年)も深く帰依され高天千軒と呼ばれ格式の高い大寺院で金剛転法輪寺七坊の一つとして石寺、朝原寺などと共に権威を誇った寺であった。又、葛城修験宗の根本道場として役の小角(634から701年)の修業した寺でもあった。
しかし、元弘の変(1331年)以後、南朝についた高天寺の修験僧高天行秀らが陰から援助していた事から北朝方の畠山基国(1333年)高師直(1348年)らにことごとく焼き打ちされ、延宝5年(1677年)住職頼勇の手により高天寺の一子院橋本院として復興なる迄350年余衰亡の一途をたどっていた。
高野山真言宗 高天寺 橋本院 縁起集より  (「高天寺橋本院 | 御所市」より)]

大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「葛城山朝原寺石寺高天寺」(5-9)

高天寺」(5-16)

[絵の上に書かれているのは、「称名院殿大和紀行曰、高天寺の初陽毎朝来の梅の樹、ちかき頃風におれたるよし、る、一丈ばかりの株枯朽したるあり、かたハらに声だありて朽てたに梅もたかまの花に八雲を声にのこす鶯
   鶯に古調ならハん高天寺 南洞」と書かれています。
書かれている内容は、「昔、若死にした小僧の悲運を、その師が嘆いていると、梅の木に来た鶯が「初春のあした毎には来たれどもあわでぞかえるもとのすみかに」と鳴き傷心の僧を慰めたという。」話を、高天寺の梅と鶯を僧が見上げている場面として描かれています。なお、僧の後ろの小僧は、亡くなった小僧さんではないかとも言われています。奥に描かれているのは金剛山。土塀内は高天寺で金剛山での修行等のための宿ともなっていたようです。  (「江戸時代の旅行本 大和名所図会を参考に愛犬と行く奈良県 …」より)]
葛城山の山伏.JPG」(5-16)

[「金剛山」と同じく、葛城山も修験道の霊地。修験道の開祖・役行者も修行した聖なる山です。江戸時代にも山伏姿の修験者がいました。挿図に描かれた山そのものは、雲か霧かが立ち込め、遠近と奥行きが強調されて、いかにも幽谷深山の気配を漂わせます。中央奥の道には材木(薪)を天秤棒で運ぶ山師2人の姿も描かれています。しかし、よく見ると、絵の5人一行が歩く道の傾斜は緩く、平らにならされていて、歩きやすそうです。歯を食いしばって岩壁や剣山を踏破するという苦行の様子はなく、表情も和やか。談笑しているようにも見えます。先頭に立って振り返っているのは先達の山伏で、しんがりを務める山伏とともに、この2人だけが荷を背負っています。間に入った3人は荷を持たず軽装で、表情もどこかお気楽。用もなさそうなのに、ホラ貝を吹いている人物もいます。どうやら、講の山上詣のようです。厳しい修行の地へ行く覚悟はなく、遊山気分で葛城山を満喫しています。挿図の右上には、源兼昌平安時代後期の歌人)の歌が引用されています。「葛城」の一節にもある、「かつらぎや 木の間に光る 稲妻は 山伏の打つ 火かとこそ見れ」でしょう。「稲妻、火」で思い起こされるのは、古来こうした修行場としての山岳に伝わる不思議な現象や異形な獣などの出現です。葛城山にも伝説が残されており、『大和名所図会』本文には、
斉明天皇元年五月、龍にのりて虚空をかけるものあり。」、「天武天皇九年二月、葛城山に麟角あり。」、「同御宇白鳳十三年、葛城に四足の鶏あり。」の3例が紹介されています。  (「『大和名所図会』今昔めぐり 24 葛城山の山伏」より)]

高天寺 橋本院 Google Map 画像リンク

高天寺橋本院山門前のカメラです。

鶯宿梅 Google Map 画像リンク

カメラ東南東方向に鶯宿梅があり、この付近が高天寺跡になるようです。(Google Map)