鷲尾家屋敷跡

マーカーは鷲尾家屋敷跡の常夜燈です。

鷲尾義久
[鷲尾 義久(わしお よしひさ、生年不詳 – 文治5年閏4月30日(1189年5月17日)?)は、平安時代末期の武士。源義経郎党。通称は三郎。は経春とも伝わる。
平家物語』の「老馬」の段に登場する(覚一本)。元は播磨山中にて猟師をしていたという。寿永3年(1184年)、三草山の戦い平資盛軍を破った義経軍は、山中を更に進軍していくにあたって、土地鑑のある者としてこの義久を召し出し、道案内役として使ったという。義経一行が鵯越にたどりつき、一ノ谷の戦いにおいて大勝を収めることができたのは、彼のこの働きによるところが大きく、「義久」という名はその褒賞として義経が自らの一字を与えてつけたものだと言われている。
以降、忠実な義経の郎党として付き従い、最後は衣川館にて主君と命運をともにしたという。
なお、義久の存在が書かれているのは『平家物語』のみであり、同時代の史料や鎌倉幕府編纂の史書『吾妻鏡』などには見られない。  (wikipedia・鷲尾義久より)]

山田の里案内図(巡って学ぼう! 山田の里の歴史と伝説より)

摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「11巻45・丹生山田鷲尾故屋栗花落氏

11巻48・丹生谷鷲尾旧屋

[挿絵の全体図。挿絵には、一谷逆落としの標者(あないしゃ)鷲尾義久の旧屋は丹生山田東下村にあり。その時賜し太刀二振を什宝とす。また庭に義経公腰懸石あり。武士(もののふ)の輩ここに至り、誉を賞じ古戦場の蹟を尋ぬるも多かりき、とある。
縁側で什宝の刀を見る風景である。庭には義経腰懸石が描かれる。  (「摂津名所図会・挿絵の旅、鷲尾旧屋 – 神戸・昼から散歩」より)]

カメラ東方向常夜燈の右側山の手に鷲尾家屋敷跡になるようです。