黒田藩蔵屋敷跡

マーカーは黒田藩蔵屋敷跡(中之島ダイビル)です。

旧黒田藩蔵屋敷長屋門
[この長屋門は、江戸時代中期の蔵屋敷の遺構をもつ数少ないものの一つである。現在の中之島三井ビル付近にあったもので、昭和8年、同ビル建設に際し大阪市に寄贈された。  (「84.旧黒田藩蔵屋敷長屋門(きゅうくろだはんくらやしきなが …」より)]

旧黒田藩蔵屋敷長屋門(別称「後藤又兵衛あかずの門」)
[『大阪市の文化財』(大阪市文化財協会編集、大阪市教育委員会、1997.2)<当館書誌ID:0000663420>
p.73に碑文掲載「現在中之島三井ビルの場所がおおむね福岡黒田藩の蔵屋敷で、これはその長屋門である。数少ない蔵屋敷遺構の一つで、昭和8年三井ビル建設に際し大阪市に寄贈された。」解説文に「俗に<又兵衛門>と呼ばれていた長屋門だけがここへ移されたものである。」「江戸中期の建造物とされる。」と記載があります。※後藤又兵衛の没年は1615年(大坂夏の陣
『中之嶌誌』(中之島尋常小学校創立六十五周年中之島幼稚園創立五十周年記念会編纂、臨川書店、1974.1)<当館書誌ID:0000301775>
p.440「木津勘助のあがつたといふ福岡藩邸の門、今は後藤又兵衛不明門といふ傳説をも持つて天王寺公園美術館の南手に移され舊態を保存されてゐる」、p.830「當時の正門は後藤又兵衛に關係ありとの傳説があつたので大正の晩年道路修築の際は軒先を切縮めた儘であつたが三井物産會社の手に移りコンクリート造りに改築の際同門は一式大阪市に寄附せられ現今は天王寺公園美術館南手に現状の儘移轉保存せられてゐる」と記載があります。
『三井倉庫五十年史』(三井倉庫株式会社編纂、三井倉庫、1961)<当館書誌ID:0080150842>
p.6「元来は門だけが独立していたのではなくて、両裾が土蔵に続いていたのであった。」、p.221「土地の売却とともに、通称「後藤又兵衛あかずの門」と呼ばれていた蔵屋敷時代からの門を、大阪市に寄付した。」と記載があります。
商用データベース「JapanKnowledge (ジャパンナレッジ)(事典・辞典等)」
「慶沢園(けいたくえん)」の項目に、「天王寺公園内、市立美術館の東側にある純日本風の庭園。もと住友家本邸の庭で、(中略)この門は中之島(現北区にあった筑前福岡藩の大阪蔵屋敷の表門を移築したもので、白壁の重厚な構えをもち、俗に「後藤又兵衛あかずの門」あるいは「源蔵門」と称されたという」と記載があります。  (「大阪市天王寺公園内にある「旧黒田藩蔵屋敷長屋門」(別称「後藤又兵衛あかずの門」)について、なぜそのような別称があるのか、来歴等も合わせて知りたい。」より)]

大阪の地図(1686年)(拡大図)

[絵地図を右にスクロールし、中之島の上、堂島川中央の橋、右が渡辺橋、左が田蓑橋で、そこの下土佐堀川に描かれる橋が筑前橋(橋の北側にあった福岡藩(筑前藩、黒田藩)蔵屋敷の便を図って架けられた私設橋で、筑前殿橋とも呼ばれた。筑前橋は明治初期 田蓑橋と対になる現在地へ架け替えられました。wikipedia・筑前橋より)で、そこの左上が黒田藩蔵屋敷になります。]
※wikipediaでは大阪の地図は1686年作成となっていますが、絵地図を見ると本町橋東詰に西町奉行所が描かれ、大阪城代・阿部正福(伊勢守・1745年 – 1747年)、京橋口定番・植村恒朝(土佐守・1742年 – 1747年)、玉造口定番・森川俊令(兵部少輔・1745年 – 1749年)の名が見えますので、1745年 – 1747年頃の作成になると思います。マイドームおおさか 敷地の変遷(詳細)では、宝暦8年(1758年)としています。

大阪繪圖 – 国際日本文化研究センター(日文研)」(成立年代-文久3(1863)年)絵図中央左、中之島右土佐堀川に架かる越前ハシの左下に「福岡」と記述されています。

黒田藩蔵屋敷跡に建つ、中之島ダイビル前のカメラです。

天王寺公園にある旧黒田藩屋敷 長屋門前のカメラです。