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龍泉寺
[龍泉寺(りゅうせんじ)は奈良県吉野郡天川村洞川(どろがわ)にある真言宗醍醐派の寺院で、旧当山派の大本山である。山号は大峯山。吉野の竹林院、桜本坊、喜蔵院、東南院と共に山上ヶ岳にある大峯山寺の護持院の1つ。本尊は弥勒菩薩。近畿三十六不動尊霊場第31番札所。
龍泉寺の境内には、「龍の口」と呼ばれる泉から湧き出る清水が流れていて、修験者たちから「清めの水」とされ、大峰山の第一の水行場とされるなど、修験道の道場として著名である。
洞川から大峰山(山上ヶ岳)を登る修験者は、宗派を問わず、龍泉寺で水行の後、八大龍王尊に道中の安全を祈願するのが慣例となっている。
洞川地区の中心的寺院として龍王講社を組織し、多くの参詣講を組織しているなど、大峯山山上ヶ岳への登拝の出発点となっている。
毎年10月の第2日曜日に、八大龍王堂大祭が行われる。
総門・wikipedia-photo
八大龍王堂・wikipedia-photo
龍の口・wikipedia-photo
水行場・wikipedia-photo
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[大峯山の登山口洞川(どろがわ)にある大峯山龍泉寺は、真言宗修験(当山派)総本山醍醐寺の大本山であり、大峯山寺の護持院でもあります。
白鳳年間(645〜710)役行者(えんのぎょうじゃ)が大峯を開山し、修行していた頃、山麓の洞川に下りられ、岩場の中からこうこうと水が湧き出る泉を発見されました。役行者がその泉のほとりに八大龍王尊をお祀りし、行をしたのが龍泉寺の始まりであると伝えられています。この泉を「龍の口」と言い、この地を龍神様の住まわれる泉ということから、龍泉寺と名付けられました。
その後、修験道中興の祖、聖宝理源大師(しょうぼうりげんだいし)によって再興修行され、修験道の根本道場として修行者を迎える霊場となりました。龍の口より湧き出る清水によって満たされた池は、水行場としても名高く、修行者の身心を清める第一の行場となっています。
昭和21年(1946)洞川の大火によって、境内の建物のほとんどを焼失しましたが、昭和35年(1960)、立派に伽藍の復興がなされ、同年、稲村ヶ岳の女人解禁されると共に滝行場である龍王の滝も整備されました。また、境内の背に控える山は県指定の天然記念物となっており、広大な原生林が四季折々の美しい風景を楽しませてくれます。 (「龍泉寺 – 大峯山」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 大日本名所図会. 第1輯 第3編(大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画)」(コマ番号366/375)
[平安時代以降の御嶽詣は王侯貴族や僧侶によるもので、「山伏」あるいは「山臥」の名称については12世紀末から17世紀おこったものと考えられます。江戸時代に入ると一般民衆の生活も安定期をむかえ、職掌山伏が俗人を連れて山上参りをすることが盛んになりました。山上講や行者講など信徒集団の講社が各地に設立されたのもこのころです。また、その講社が大峯山を経済的に支えるようにもなりました。大峯山上の本堂はたびたび火災にあい、現存する本堂は元禄4年(1691)に再建されたものですが、その際には「阪堺役講」という大阪・堺の商人町を中心として構成された各講社(岩・光明・三郷・京橋・鳥毛・井筒・両郷・五流)が、豊富な資金を提供しています(大阪は当時天下の台所として隆盛を極めていました)。現在、役講は本堂の鍵を預かり、修行のシーズンの始まりを告げる戸開け式・シーズンの終了する戸閉め式において重要な役割を果たしています。講社は地域のコミュニティにおいても重要な意味を持ち、地域の若者が一定年齢に達したとき、大人の仲間入りをさせる通過儀礼として、大峯山で修行させました。山内の行場で行われる厳しい行を成し遂げてこそ、一人前の大人と認められたのです。 (「天の国:天川村の歴史と宗教」より)]
「龍泉寺 – Google Map 画像リンク」「滝行場 – Google Map 画像リンク」
龍泉寺総門前のカメラです。
龍泉寺修験門前のカメラです。
龍泉寺修験門内のカメラです。
カメラ北方向石段先が滝行場になります。