マーカーは一之舟入です。
一之舟入
[高瀬川一之船入(たかせがわいちのふないり)は、京都府の高瀬川に作られた船入(船を接岸させるための入り江)である。1934年(昭和9年)1月22日、国により名勝天然記念物に指定された。一之船入手前の高瀬川には高瀬舟が再現されている。高瀬川には他に二之船入・三之船入等の船入が設けられていたが、現存するのは一之船入のみである(2010年4月現在)。
高瀬川から見た一之船入(奥の水路)・wikipedia-photo、「一之船入(水路・現在の日本銀行京都支店〈左〉が陸揚場)」・wikipedia-photo、再現された高瀬舟・wikipedia-photo (wikipedia・高瀬川一之船入より)]
[高瀬川の舟入は、物の積み下ろしと舟の方向転換の場所です。古地図類の示すところによれば高瀬川が開かれた当初は二条~四条間に七か所作られましたが、十七世紀末には九か所に増え、十八世紀中ごろには七か所に減り明治に至りました。現在は一之舟入(中京区木屋町通二条下る西側。)だけが残っています。川の管理者である角倉氏はここに角倉屋敷をおき、高瀬舟の運航を監視しました。
昭和九(一九三四)年、一之船入は史蹟名勝天然紀念物保存法により史蹟に指定され、戦後も文化財保護法による史跡に指定され「史蹟一之船入」の石標が建っています。
ほかに高瀬川沿いには、二之舟入、三之舟入、五之舟入、六之舟入、七之舟入、八之舟入、九之舟入にの各舟入跡にも石標が建てられています。二之舟入跡と三之舟入跡の石標は舟入が七か所だった時代の二番目と三番目の舟入の位置に建てられましたが、平成二十一年に九か所だった時代にもとづき五~九の舟入跡に石標が建てられ、同時に二之舟入跡と三之舟入跡の石標は九か所の時期の二番目と三番目の位置に移されています。
なお一之舟入以外の舟入を「~之舟入」と助数詞を附けてよぶことは、江戸時代の古地図や地誌類には見られず、比較的新しい呼び名だと考えられます。
高瀬川で用いられた高瀬舟は平底の小型船で,舳先は水に乗りやすく,舟首に向かって舟底がそり上がっていました。舟の長さは平均13メートル,幅は2メートル。京都方面へ向う上り舟は,満載で15石(2.25トン)積,下り舟はその半分でした。宝永7(1710)年ころの,伏見から二条間に就航した舟は188艘ありました。
伏見から京都に運搬された物資は,たきぎ・材木・炭・米酒・醤油・嗜好品・海産物などで,京都から伏見へは,たんす・長持・鉄工業製品などが輸送されました。高瀬川の開削によって大坂・伏見方面の物資が伏見(現南浜町)経由で京都へ送られるようになったことから,伏見や下鳥羽の陸運業者は仕事が激減する痛手を受けました。
高瀬川の舟運によって川筋の舟入には問屋が多数置かれ,商品を扱う商人や職人が同業者町を形成し,材木町,樵木町(こりきちょう),石屋町,塩屋町など職種や商品を反映した町名がつきました。 (「都市史22 高瀬川 – 京都市」より)]
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一之舟入資料リンク
「中井家絵図・書類 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」 – 「寛永後萬治前洛中絵図(出版年 1642)」[絵図下に七つの舟入時代の高瀬川が描かれています。描かれていないあと二つは、松平長門守(長州藩)左の一画(二之舟入)と、小笠原右近と松平土佐守(土佐藩)の中間に描かれる一画(六之舟入)が舟入になると思われます。]
「都名所図会」・巻之一 平安城再刻 生洲 (生簀)、巻之一 平安城再刻 生洲 (生簀)翻刻文
生洲 (生簀)(拡大図)
[生洲(いけす)
生州といふは高瀬川筋三條の北にあり。川辺に楼をしつらひ、もろもろの魚鳥を料理て客をもてなし酒肴を商ふ。王祥が孝に感ぜし鯉も張翰が千里を思ふ鱸も、怱ち川辺の生洲に湛て都鄙の賓客をまつ。しかしながら婦人の来集、琴三弦の音曲を禁ず。むかしより此所の掟となんいひ伝へ侍る。]
「拾遺都名所図会」・巻之一 平安城 高瀬川
高瀬川(拡大図)
[高瀬(たかせ)川
高瀬川は中頃、内裏御修理の材石を運ばしめんとて、角倉了以(すみのくらりやうい)の作るよし、嵐山(あらしやま)の碑に見へたり。又河内国にも同名ありて、これは代々の勅撰に和歌多くゑらばれける。]
「年中行事大成. 巻之1-4 / 速水春暁斎 画図」・「角倉船乗初之図」(1-18)、「角倉船乗始解説・左ページ」(1-20)、「角倉船乗始解説-2・右ページ」(1-21)
[ 京都の地形は四方を山々に囲まれた盆地ですから、同じ上方でも水の都と謳われた大阪とは好対照をなしているといえます。この二大都市を結ぶパイプラインの役割を河川が担っていました。陸路に比べて、大量の物資をすばやく輸送することが可能であるのが特徴です。
江戸時代を通じて、京都で水上運搬に最も多く利用されていたのは、京の三長者として知られた角倉了以が開削した高瀬川。了以という人は大胆かつ緻密な人物であったと伝えられています。海外は朱印船貿易、国内では河川土木と、広く手がけたのです。高瀬川は、慶長16年(1611)に焼失した方広寺の大仏再建のため、大量の資材運搬を目的に開削された運河だったのです。二条通を北端に、南は伏見まで造られました。
高瀬という名称は「高瀬舟」という船を用いて物資の運搬にあたっていたことに因むもの。挿絵の左手前に描かれているのが高瀬舟で、船首が普通の小舟よりも高く、船体の幅が広くなっているのが特徴です。
高瀬川の二条、一の舟入付近では、正月二日に高瀬舟の乗り初めが行われていたこと、『諸国図会年中行事大成』に挿絵とともに記載されています。正月の行事ということもあって、参賀に向かう裃姿の侍や、挨拶回りに向かう羽織袴の商家の人々の姿が描きこまれています。船上からご祝儀がまかれ、川岸の見物客らが我先にと拾う様子も見えます。 (「「18.角倉 舟の乗り初め」」より。]
カメラ北西方向が一之舟入です。
一之舟入(「Google Map 画像」より。)