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八島陵(崇道天皇陵)
[八島陵(やしまのみささぎ、やしまりょう)は、奈良県奈良市八島町にある早良親王の陵。八嶋陵とも記され、また親王が崇道天皇と追尊されたことより、崇道天皇陵とも呼ばれる。文久年間に治定された。
陵域は延喜式の諸陵式によると「東西五町、南北四町、守戸二烟」、『奈良県報告』第8回御陵墓表によると「東西壱町壱分弐厘、南北参八間壱分七厘」と記されている。形状はやや楕円形で、周辺には方形の土塀が廻り、松や広葉樹が繁茂するため遠目には方形墳のように見える。「陵墓要覧」では円墳と分類されている。
八島陵前石室古墳
陵直前の道路内に、封土が失われ大型自然石の横穴式石室天井石が露出した古墳がある。規模は南北長さ約7m、幅約3m。近隣ではこの巨石群は八つ石と呼ばれており、言い伝えでは早良親王が淡路国での死に際し石を9つ投げ、落ちたところに葬って欲しいと告げて絶命した。それらのうち8つがこの地で見つかり、親王の陵が当地で造営されたと伝わる他、一説には八島の地名の由来ともなったとされる。しかし実際には、古墳時代後期の造営と見られ、早良親王とは直接の関係はないようである。石を取り除こうとすると工事関係者が死んだり病で倒れたりしたと言われ、祟りがあるとの伝承がある。
歴史
早良親王は藤原種継暗殺に連座した疑いを受け、延暦4年(785年)に廃嫡、淡路国に配流の途上、49歳で薨去された。屍は淡路に送られ、最初の墓は淡路に造営されたが、霊が祟りをなしたと恐れられたため、延暦19年(800年)に崇道天皇と追尊され、淡路の墓も山陵とし、淡路国津名郡の戸2烟に守らせたという。さらに延暦24年(805年)、改葬司を任じて八島陵への改葬が執り行われた。
寛永4年(1627年)の『宗国史』によると、八島の地には崇道天皇社と宮寺(八島寺)があったと記されている。この宮寺は八島寺であったとされ、近世はこれらの社寺が八島陵の現在地及び周辺を占めていた。『明治34年(1901年)添上郡郷村社神社祭神由緒調書』に古図の写しが含まれており、そちらには八島陵の位置に拝殿・鳥居・社殿等、その西南に薬師堂・十羅刹跡・宮坊・土蔵などが描かれている。明治以降これらの寺社は移築あるいは廃され、現在の御陵が整備された。
参道下より・wikipedia-photo
八島陵・wikipedia-photo
八つ石・wikipedia-photo
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「崇道天皇陵 – Google Map 画像リンク」、「八島巨石伝承 – Google Map 画像リンク」
カメラ北方向が八島陵(崇道天皇陵)です。
カメラ位置は八島巨石伝承の八つ石前です。