革嶋城跡

マーカーは革嶋城公園です。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)京阪神図」の1892~1910年の地図中央の川嶋下の集落区域が革嶋城跡と思われます。

革嶋城跡
[京都近郊に営まれた荘園の領主は、京内に居住する貴族や社寺でした。荘園内で生産された米穀・野菜などの農産物は、荘園領主の生活には欠かせないものとなっていました。食料のみならず、正月の鏡餅、五月の蓬や菖蒲など荘園領主の年中行事と密接に結び付いていたからです。このため、京都近郊では中世を通じて荘園が維持されていきます。これらの荘園は小規模で複雑に分割支配されているのが特徴です。
各荘園には管理するための荘官が置かれていましたが、やがてこれらの荘官は次第に勢力を拡大して在地領主(国人)として農民とその土地の支配を目指すようになります。室町時代には、国人の主要なものは将軍直属の被官人として組織され、戦国時代に活躍します。
一方、農民は荘園の枠を超え在地の郷村ごとに団結を強めていきます。やがて、正長の土一揆( 1428 年)、嘉吉の一揆( 1441 年)の頃には、荘園領主や幕府に対抗するまでに自立していきます。
室町時代初め頃、京都山城国)には守護が設置されておらず、後に守護が設置されてからも、激しく交代が行われました。そのため山城国には有力な守護(大名)が根付きませんでした。一方で、京都の周辺には古代以来の荘園が数多く存在し、荘園を管理する荘官が在地の有力者(国人)となって、地域を分割統治していました。国人たちは、それぞれの地域に居館を築き、戦国時代になると防御を固めていきます。城を冠する地名や遺構が京都近郊に多数残っているのはそのためです。それぞれの居館はさほど大きな規模ではありません。基本的に周囲を堀と土塁で囲み、内部に数棟の建物を構えているようです。内部をさらに堀で区画し、いくつかの郭に区分しているものもあります。
革嶋館(京都市西京区川島玉頭町):革嶋氏清和源氏の流れをくむ佐竹氏の傍流で、鎌倉時代には近衛氏代官下司職)として、革嶋南荘の荘園管理を請け負っていました。室町時代に徐々に勢力を広げ、在地領主となります。天正 10 年( 1582 )には山崎合戦明智光秀方に属し、一時勢力を失いますが、江戸時代には当地に復帰しています。革嶋氏が鎌倉時代から代々残してきた『革嶋家文書』(京都府立総合資料館蔵)には江戸時代中期の屋敷地の絵図が残されています。
2009 年には居館推定地の南部で発掘調査が行われ、屋敷地を方形に囲む堀跡や井戸などが見つかっています。

    (「京都近郊の居館・集落 – 京都市埋蔵文化財研究所」より)]

革嶋城跡 – Google Map 画像リンク

カメラ北北東方向が革嶋城跡に整備された革嶋城公園です。