高須遊廓(地獄太夫)

マーカーは高須遊廓跡付近です。

[北高須町、南高須町は、江戸期以前から遊女町として成立しており、その起源は定かではない。北高須町、南高須町は中世に完成していた町の北端部と南端部に位置し、堺の中心部を貫通する紀州街道と接する場所にあたる南北旅籠町から一筋裏側に位置する。  (「149. 江戸期以降-戦前までの地方大都市における遊里・遊廓の …」より)]

地獄太夫
[地獄太夫(じごくたゆう、生没年不詳)は、室町時代遊女。梅津嘉門景春の娘で、幼名は乙星。
如意ヶ嶽山中で賊にとらわれたが、あまりの美貌のため遊女として売られ、泉州堺高須町(現大阪府堺市堺区高須町)の珠名長者に抱えられた。「現世の不幸は前世の戒行が拙いゆえ」であるとして、自ら地獄と名乗り、衣服には地獄変相の図を繍り、心には仏名を唱えつつ、口には風流の唄をうたったという。
一休宗純が堺に赴いた時(元より地獄太夫を見に行ったとも言われる)、彼を目に止め、「山居せば深山の奥に住めよかし ここは浮世のさかい近きに」と歌を送った。単に訳せば「山居(山に住む、つまり出家して寺にいる者を暗喩)しているなら、山の奥に篭っているべきでしょう。ここは浮世の境に近いところですよ」という程度だが、この場合「さかい」を「堺(当時の大都会)」とかけており、また「浮世のさかい近く」全体では、あの世とこの世の境界付近、つまり「地獄(遊郭そのものの隠喩と自分自身の名前)の周辺」とかけている。従って、「出家して俗世と無縁のはずのお坊さんが、山の寺に居らずこんな俗世の中の俗世極まる場所で何をしているのか」、もっと言えば「山猿坊主は山に引っ込んでればいい。ここは都会の遊郭、自分の領域」という暴言とも取れる歌を詠んだとされる。これに対して一休は、「一休が身をば身ほどに思わねば 市も山家も同じ住処よ」と返す。意味としては「自分はこの身を何とも思わないので(禅宗で言う「空」の悟り)、どこにいても同じことだ」ということになるが、地獄太夫への返歌と考えれば「どこにいようと(あるいは、遊郭で女遊びしようと)俺の勝手」くらいの意味であるとも取れる。その上で、この遊女こそかの名高き地獄太夫であると知ったことから、「聞きしより見て恐ろしき地獄かな」と歎賞するのである。これも単に訳せば「地獄というのは、実際に見てみると聞いていたより遥かに恐ろしいな」というだけであるが、ここでの「地獄」は当然地獄太夫本人を暗喩する。「恐ろしい」は「人々から聞いた『地獄』の評価」を意味する訳であるから、「地獄太夫が大変に美しい、そして傑出した遊女である」という前評判のことを暗喩する。つまり「実際に見ると、聞いていたより遥かに美しいし、大した女だ」という褒め言葉でありつつ、しかし自分を目に止めていきなり暴言を歌に詠む機転や胆力に対して「恐ろしい」という意味をも込めている訳である。これを受けた太夫はさらに、「しにくる人のおちざるはなし」と下の句を付けてみせるが、これは「死んで来た人は皆(地獄に)落ちる」という仏教感にかけて、「(自分のところに女遊びを)しに来る人は、みんな(自分に)落ちる」という返しであり、つまり「私と一事に及ぶつもりなら、あなたも覚悟しなさい」と牽制するのである。ただ、これらの句については、
一休「聞きしより見て『美しき』地獄かな」→太夫「『いき』くる人のおち『ざらめやは(も)』」
とする説が根強い。
この出来事を機に2人は師弟関係を結んだと言われ、有名な狂歌「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」(一休宗純が遺した言葉)は、一休が太夫に贈ったものとする説もある。
地獄太夫は「我死なば焼くな埋むな野に捨てて 飢えたる犬の腹をこやせよ」という辞世を遺して早世したが、最期を看取った一休は、泉州八木郷の久米田寺に塚を建てて供養したといわれる。ただし、これも山東京伝の創作であるとされる。  (wikipedia・地獄太夫より)]

和泉名所図会. 巻之1-4 / 秋里籬嶌 [著] ; 竹原信繁 画」 – 「一休和尚堺高須遊女地獄(1巻18)

堺大繪圖 : 全 : 嘉永改正・文久3(1863) – 国際日本文化研究センター」(絵地図下中央・大和川に架かる大和橋の上方向に旅籠町と記述され、その左方向三筋目に高須丁(現在の高須神社停留場南側付近)と記述されています。

カメラ位置は高須神社停留場東側で、カメラ初期設定方向に室町時代高須遊廓があったと思われます。