田出井山古墳(反正天皇 百舌鳥耳原北陵)

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田出井山古墳(反正天皇 百舌鳥耳原北陵)
[田出井山古墳(たでいやまこふん)は、大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町にある前方後円墳である。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つで、実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)」として第18代反正天皇の陵に治定されている。世界文化遺産 百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群- の構成資産の一部として登録されている。
百舌鳥古墳群の北端に位置し、大阪湾からの眺望を意識し、場所の選定と墳丘の方向が決めたと考えられ、台地の西縁部に等高線と墳丘主軸線を並行させるように前方部を南に向けて築造されている。全長約148メートル、後円部径約76メートル、高さ約13メートル、前方部幅約110メートル、高さ約15メートル、墳丘は3段築成、くびれ部の西側のみに造り出しが作られ、盾形の内濠を有する。現在は一重の周濠だが、発掘調査により、築造時は外濠のある二重の周濠であったと判明し、また、円筒埴輪、形象埴輪、須恵器などが出土した。濠の形態や出土した埴輪より、5世紀中頃に造築されたと考えられている。周辺には陪塚と推定される鈴山古墳・天王古墳があり、それらも宮内庁が管理している。

田出井山古墳宮內廳標示・wikipedia-photo

田出井山古墳拝所・wikipedia-photo

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和泉名所図会. 巻之1-4 / 秋里籬嶌 [著] ; 竹原信繁 画」 – 「仁徳天皇陵反正天皇陵方違社三國辻(1巻32)

[絵図左ページに方違社が描かれ、その右に大山陵(仁徳天皇陵・大仙陵古墳)と記述されていますが、盾井陵(反正天皇陵)の間違いと思われます。方違社の長尾街道(和劦(和州・大和)道)の参道口に三國乃石、その左に首切地蔵と記述されています。]

「国立国会図書館デジタルコレクション – 堺大絵図改正綱目・享保20(1735)年」(堺大絵図改正綱目.pdf)(コマ番号3/3・絵地図四つ切右上、和劦道先の上の地蔵が「首切り地蔵」と思われ、その右に方違宮が描かれ、その下の田出井山が田出井山古墳(盾井陵・反正天皇陵)になります。また、方違宮上に王子飢墓と記述されています。)

[泉州堺繪圖]文久3(1863)年 – 国際日本文化研究センター」(絵図下中央、大小路通の二筋右に花田口と記述されています。その道が長尾街道で、その先に「方違宮」と記述され、その左に「田出井山ト云」と記述、右方向に「三國」、「首切地蔵」、「王子ヶ飢」と記述されています。)

田出井山古墳(反正天皇 百舌鳥耳原北陵)拝所前のカメラです。