マーカーは龍淵寺です。
龍淵寺
[京都を彩る建物や庭園
選定番号
第3-025号
推薦理由(抜粋)
戦国時代の天正10年(1582)開山で,明智光秀公からいただいた土地で今も継承している。動乱の世に建立されて以来,今なお樫原の人々に「心のよりどころ」として存続しており,仏事があると檀家が先祖供養,平穏無事を感謝するため参拝される。 (「7.龍淵寺 – 京都を彩る建物や庭園 京都市文化市民局」より)]
[たまたま、通りかかり石碑を見ると、なんと「浄土宗西山深草派」のお寺です。総本山はいつもお世話になっている、京都市新京極六角にある「誓願寺です。この宗派「浄土宗」は京都に多く有りますが、「西山深草派」の末寺は30寺位で、裏寺町通には数寺有りますが、まことにまれな宗派です。「浄土宗西山深草派」は比較的新しく、「西山上人・証空」の弟子「円空立信」(1231~1284年)が京都深草に「真宗院」を建立して布教したのにはじまります。明治に入り「浄土宗」(鎮西派)と合同しましたが、その後分離独立しました。「西山派」に合同しましたが、戦後独立し現在にいたっています。そのために「浄土宗西山深草派」の末寺は数少ないのです。
しかしこのお寺の有名なのは「辻のお地蔵さん」です。山門を入ったすぐ右手にお堂が有ります。四百年位以前の、第106代「正親町天皇」より、国内の平和と朝廷の衰微を再建せよとの命を受けた「織田信長」は「明智光秀」に丹波国・丹後国の平定を命じました。丹波国の「秦之秀治」は滅亡しましたが、その部下の「雲林院式部承高任」は単独で樫原に逃げ、「辻の平兵衛」の縁故者宅に身を寄せました。名前を「太郎左衛門入道」と改め、佛門に入り、信仰していた「地蔵尊」を小さな堂宇を建て安置し、主家の菩提と諸悪消滅を祈願、日夜念仏を唱えて修行し、108歳の長寿を全うしたという逸話があります。この「お地蔵さん」を「雲林院延命地蔵」とよび、無病息災・所願成就・安産に霊験あらたかな「お地蔵さん」と祀っています。「お地蔵さん」の前で大きな釜で湯茶を沸かし、「一刻のいこい」にと、樫原の街道を行き交う旅人・商人にふるまっていたという事です。霊験あらたかさが今も有名で、命日の7月23日には、樫原の人々が健康で過ごすようにと、お茶の振るまいをいただいています。 (「いとど家笑六 – 京の話題(平安京その517)総本山(浄土宗西山深草派)の末寺・龍淵寺ー1」より]
「龍淵寺(りゅうえんじ) – Google Map 画像リンク」
カメラ南南西方向が龍淵寺山門です。