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三艘会館文殊堂
[京浜急行逗子線の六浦駅から東へ300mほど行った所の線路脇に、三艘町内会館があります。その名が示すようにこの辺りは「三艘」と呼ばれ、中世、鎌倉の外港として重要な役割を果たした六浦湊の主要な船着き場でした。「北条実時の時代に唐船三艘がこの場所に着岸した」、あるいは「実時の子顕時、その子貞顕の頃までに唐船が一艘ずつ三度に亘り来航した」ともいわれ、「三艘」の地名の由来と伝えられています。新編鎌倉志では「三艘浦は、六浦の南向ひの村なり。昔唐船三艘此所に着く。故に名くとなり。其時に載せ來りしとて一切經・靑磁の花瓶・香爐等、稱名寺にあり」とあります。
実時の時代の中国は南宋末期でしたが、文化面では最盛期を迎え、日宋貿易によって多くの工芸品や経典が唐船によってもたらされました。僧侶の往来により禅宗や朱子学が伝えられ、他に陶磁器や絹織物、香料、薬品そして宋銭などが輸入されたと伝わっています。
1997年(平成9年)に重要文化財に指定された「宋版一切経」は、北条実時が中国から請来した仏典で、唐船によって三艘に運ばれたものともいわれています。唐船には、積載された貴重な経典や書物を船内の鼠から守るために猫が乗せられていて、その唐猫が金沢の地に住みつき繁殖し、金沢猫として珍重されたと伝えられています。
現在は東朝比奈町に移った千光寺には今も猫塚が残っています。このように三艘は多くの文化や貴重な書物などを鎌倉に運ぶ重要な拠点でした。 (「連載 かねさわ地名抄 第24回「三艘」 文・NPO法人 横濱金澤 …」より)]
[三艘町内会館に文殊菩薩像が安置されています。これは戦国時代に小田原北条氏の家臣で玉縄城を守る「玉縄18人衆」と称される朝倉能登守景高(あさくらのとのかみかげたか)の持仏でした。景高は三浦衣笠の荘のうち、浦郷村を拝領した領主です。景高は夫人が熱心な浄土宗の信者だった為、曹洞宗であった寺を阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の良心寺として追浜に創建しました。この時、三艘に住んでいた檀家総代の大川段右衛門が、文殊堂を建立し菩薩像をお移ししました。文殊堂は現存していませんが、菩薩像は三艘町内会館に保存され、今でも近所の人たちにより大事にお祀りされています。 (「三艘会館文殊堂 – 横浜金沢観光協会」より)]
三艘庚申塔
[京浜急行逗子線の赤い車両が通り過ぎていく。踏切を越えると、庚申塔が二基建っていた。これは三艘(さんぞう)の庚申塚といい、右は寛文十年(1670)、左は享保九年(1724)の建立だ。(横濱金澤シティガイド協会のWEBページより) (「横浜の川を歩く3 侍従川 – はてなブログ」より)]
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図 」・「三艘ヶ浦古史」(6-59)
三艘ヶ浦古史(拡大図)
カメラ北北東方向に三艘庚申塔、そこの右方向消防団会館の隣が文殊菩薩像が安置されている三艘町内会館です。