伊勢路見取図絵図(伊勢街道・伊勢宇治)

絵地図初期設定画面左集落は宇治(中之町・Google Map )と思われます。集落右の街道の横断水路が古市( Google Map )との境界になります。絵地図を右にスクロールすると勢田川板橋(小田橋)が描かれています。古市と勢田川板橋(小田橋)との間が間の山で坂の印が描かれています。

伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [画]」 – 「間の山 4巻 37p

[いつの頃からか間の山に出て三味線を弾き鳴らしながら悲しい調子の「間の山節」を唄い、往来する参宮人から銭を投げてもらっていましたが、評判になった後には小屋を建て、歌も何を言っているのか判らないような早口な歌になり、参宮人が面白がって彼女らの顔をめがけて銭を投げつけ、それをうまくかわしたり、三味線の撥で受け止めたりする興行に変わっていきました。弥次さん喜多さんもお杉お玉に銭を投げつけましたが、顔に当てることはできませんでした。「お杉お玉」は二人組とは限らず、同時に何組もいたようです。「間の山のお杉お玉」を題材にした川柳には「相の山神道流で銭を投げ」や「面白く銭の無くなる相の山」などがあります。ちなみに牛谷坂には「お鶴お市」がいたそうです。  (「間の山 お杉お玉 尾部坂 牛谷坂 古市参宮街道 – ブラお伊勢」より)]

古市 4巻 38p

[小田橋を渡り丘陵の坂を登っていくと、古市に入っていきます。古市は外宮と内宮の中間に位置し、江戸時代には参宮街道中、最大の歓楽街として発達しました。間の山と呼ばれるせまい道中の両脇には旅籠や茶屋、芝居小屋が延々と軒を連ね、70 軒を数える妓楼が参宮者の遊興を誘いました。図は妓楼で伊勢音頭を見ながら酒を酌み交わす男性の客が描かれており、遊郭での豪奢な遊びの様子が伺えます。また、古市は伊勢歌舞伎をはじめとする芸能文化発信の拠点として全国的にも有名でした。  (「伊勢への信仰 – せんぐう館」より)]

絵地図初期設定画面中央右上に黒門橋(宇治総門)が描かれています。

絵地図初期設定画面中央左に皇大神宮(伊勢神宮 内宮)、そこの左上に風日祈宮橋、右上に宇治橋が描かれ、絵地図を右にスクロールすると「宇治」と記述されています。

宇治橋 4巻 49p

[宇治橋は内宮の五十鈴川(御裳濯川(みもすそがわ))に架かる橋で、宇治とは内宮の鳥居前町の郷名です。現在の規模の大橋になったのは室町時代で、明治時代までは橋を渡った神域側にも神職の館をはじめとする宿舎が立ち並んでいました。遙々諸国から徒歩で来た参宮者は、道中、国ごとにいくつもの川を越えてきました。神路山を遙かに仰ぎ五十鈴川の清流を見ながら、いよいよ神域に入っていきます。  (「伊勢への信仰 – せんぐう館」より)]

絵地図を右にスクロールすると風日祈宮橋、皇大神宮(伊勢神宮 内宮)が描かれています。

内宮宮中図 5巻 6p

[構図から正殿がある東の御敷地を中心に描いています。外宮と同様、外玉垣、板垣がなく(明治期に復興)、東側には 80 の末社群がありました。正殿の両脇に東宝殿・西宝殿が描かれています。この配置は天正 13 年(1585)第 41 回式年遷宮以来のもので、明治 42 年(1909)第 57 回式年遷宮において正殿後方に戻され現在に至っています。五十鈴川を隔てた対岸には僧尼拝所がありました。  (「伊勢への信仰 – せんぐう館」より)]

内宮宮中図其二 5巻 7p

[左ページ下に二の鳥居、右ページ下に五十鈴川(島路川)に架かる風日祈宮橋が描かれ、図会中央上に荒祭宮、荒祭宮遥拝所が描かれています。]

内宮宮中図其三 5巻 8p

[左ページ中央左端に宇治橋、右ページ下に御手洗場が描かれています。]

    伊勢路見取図絵図(伊勢街道・伊勢山田)