『善光寺道名所図会』(ぜんこうじみちめいしょずえ)は、1849年(嘉永2年)に名古屋で刊行された名所図会である。豊田庸園(ようえん)の著で、図版は小田切春江による。全5巻。
1843年(天保14年)に、美濃国今尾藩(岐阜県海津市)の城主竹腰正富の家臣の豊田庸園(別称:利光、利忠、伊右衛門、養甫)が、藩務の余暇を利用して、中山道本洗馬から善光寺道(北国西街道)の各宿駅を経て善光寺に至り、さらに善光寺から北国往還(北国街道)を江戸に向かい、碓氷峠に至る間の各宿場を一円とし、名所旧跡を記録したものを、名古屋の出版業者美濃屋伊六が刊行した。
巻一の内容
「巻一」は、洗馬、郷原、村井、松本、池田の各宿駅にふれる。このなかでは、松本から安曇野にかけての名所旧跡に筆がさかれる。筑摩八幡宮・宮村大明神・初市立・大宝山正行寺・木曾山長称寺・玄智井・北林山極楽寺・松本産物・竜雲山広沢寺・兎田・金峯山保福寺・金峯山牛伏寺・白糸御温泉・浅間温泉・清水里・桐原牧の跡・愛染川・養老坂・熊倉橋・穂高町村・穂高神社・天神原・穂高奥嶽・栗尾山満願寺・水沢山若沢寺にふれる。 (wikipedia・善光寺道名所図会より)
『善光寺道名所図会』 – 志村氏林泉の図(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 1巻 – 17p 」より)
[天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、洗馬宿の宿内家数は163軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒で宿内人口は661人、伝馬は50人50疋であった。慶應2年(1866年)には吉丸屋の丸山左源太を中心に世直し一揆の木曽騒動が発生した。脇本陣の旧志村家庭園は芥川龍之介の短篇『庭』のモデルとなった。 (wikipedia・洗馬宿より)
『善光寺道名所図会』 – 百瀬氏林泉の図(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 1巻 – 19p 」より)
[洗馬宿の本陣は宝永年間(1704年~1710年)に家主三沢家の没落により百瀬家が譲り受けました、当時「善光寺道名所図会」には広大な裏庭が描かれその広さは現在のJR中央線洗馬駅にまで達していました。 (「洗馬宿 – 中山道」より)]
『善光寺道名所図会』 – 神明宮 太田の清水(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 1巻 – 21p 」より)
[図会は二カ所に分かれて描かれています。図会上に洗馬宿南口の神明宮(現・神明宮上下二座)が描かれ、下に太田の清水が描かれています。]
[神明宮は、洗馬宿をはなれた右手の堤にあり、ここの産土神です。天照太神を祀っています。
義仲馬洗水は、太田の清水といいます。洗馬宿を出て左の方にあり、太田村のなかです。木曽義仲が馬を洗ったので、この名がついています。ここから18町いった西に元洗馬がありますが、木曽川にあづま橋を渡していて古道といわれています。 (「洗馬宿 北国西脇往還(北国西街道・善光寺街道)街道・宿場」より)]
『善光寺道名所図会』 – 原新田追分石標 神明の森(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 1巻 – 23p 」より)
[『善光寺道名所図会』本文( 1巻 21p )に「原新田村乃入り口に追分道あり石標に「右 京 いせ道 左 伊奈諏訪道」松本の方より来る人乃左右なり・・・」と記述されています。]
『善光寺道名所図会』 – 宮村大明宮境内(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 1巻 – 27p 」より)
[宮村大明宮は深志神社のこと。天保12年(1841年)、京都の神道家吉田家の許可を受けて宮村宮から現社名に改称した。 (wikipedia・深志神社より)]
『善光寺道名所図会』 – 正月十一日松本初市(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 1巻 – 29p 」より)
[『善光寺道名所図会』には、江戸時代後期のあめ市の様子が「初市」という名称で挿絵とともに紹介されています。挿絵の中央に市神社が見え、神官が2人殿上にいて1人はお祓いをしています。下から手を差し伸べているのは、本殿の右に盛られた塩をいただきに来た人です。場所は、本町二丁目西側の書肆(しょし)「高美屋」の前で、背景に松本城の櫓、更には放光寺山(城山)が見えています。高美屋は高美書店のことで入口を伊勢町側に移してはいるものの、松本の老舗書店として今も本町二丁目にあります。また、高見屋という名で十返舎一九の『金草鞋 善光寺参詣・草津道』の挿絵にも登場しています。店主の甚左衛門は一九を始め江戸の文人の多くと交遊があり、一九も松本では高美屋に滞在していました。高美書店には江戸時代のあめ市の様子を示す資料として、店主の日記「高美甚左衛門日記」が伝えられています。この日記からも当時のあめ市の様子をうかがうことができます。文化13年(1816)の日記には、1月11日の条に「例年のあめ市、あめや所々より出る」とあります。この頃は、あめ市と称しており、江戸時代後期には飴がこ
の市の縁起物として売られていたことがわかります。高美屋も毎年宮村町の千右衛門という飴屋に店先を貸しています。日記では、あめ市という呼称は文政8年(1825)に初市に変わり「市立」という表現を交えながら定着していきます。 (「(2) 商都松本にみる歴史的風致 ア はじめに 松本の城下町の町 ..」より)]
『善光寺道名所図会』 – 大寶山 佐々木 正行寺(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 1巻 – 31p 」より)
[現在、長野県松本市大手にある真宗大谷派大宝山専修院正行寺と松本市島立南栗にある浄土真宗本願寺派大宝山高綱院正行寺は、親鸞聖人の弟子である了智上人となった高綱が建立したと伝えられており、近くには「釈了智上人承久三年十月二十五日寂佐々木四郎高綱」と書かれた墓碑銘を持つ、高綱のものと推定される墓がある。また地元民は高綱の名にちなみ、この一帯を「高綱原」と呼んでおり、市立高綱中学校も存在する。 (wikipedia・佐々木高綱より)]
[松本には 正行寺が 2 ヶ所あります。城下の下横田町にある正行寺と松本市島立南栗にある正行寺です。城下にある正行寺は、城主石川氏と深い関係をもっています。また、明治の廃仏毀釈のさい、これに強く抵抗し廃寺にされることを拒みとおした佐々木了綱が住持だったことでも知られています。 (「正行寺」より)]
『善光寺道名所図会』 – 源智井戸の図(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 1巻 – 33p 」より)
[松本城下町が形成される前から飲用水と使われていたとされ、城下町が形成されてからは主に宮村に住む人に使われた。その後、この地に住居を構えていた河辺氏に所有権が移り、河辺縫殿助源智の名を取り、源智の井戸と呼ばれるようになった。1881年(明治13年)の明治天皇松本御巡幸の際には御膳水として使われた。1843年(天保14年)に刊行された「善光寺道名所図会」には信濃国第一の名水とする旨が示されている。2008年(平成20年)6月には、環境省による「平成の名水百選」に、「まつもと城下町湧水群」が選定され、その代表的なもののひとつ。 (wikipedia・源智の井戸より)]
『善光寺道名所図会』 – 北林山 海野 極楽寺(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 1巻 – 36p 」より)
[塔頭二ヶ寺 宗玄寺 善福寺]
[「善光寺道名所図会」によれば小県郡海野の住人海野三郎重広が親鸞の弟子となり極楽寺を開基したという。その後、永禄3年(1560)12代了専の時、武田信玄の命により筑摩郡栗林に移った。「信府統記」によりその後の状況を見ると、寛永2年(1625)戸田康長の時代に本町1丁目(女鳥羽川左岸・旧開智学校のあった場所)に移転した。その後「松本市史」によれば明暦2年(1656)11月15日極楽寺が焼失したので、時の藩主水野忠識(ただもと)は本町5丁目の現在地へ極楽寺を移し、翌年、本町1丁目の極楽寺跡へ、寛永年中に松本城外(場所不明)に建立していた水野家の菩提所春了寺(しゅんりょうじ)を移した。 (「極楽寺・乾 瑞寺」より)]
『善光寺道名所図会』 – 廣澤寺(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 1巻 – 37p 」より)
[図会右ページに廣澤寺、その山門前に免田と記述され、左ページ中央に林藤助(小笠原光政)宅跡と記述されています。]
[信濃国守護の小笠原氏の菩提寺として創建され、以来寺領が十数万坪になるなど繁栄を重ねた。近年、小笠原氏から住職が出て復興された。天文11年(1542年)小笠原長棟の法名「広沢寺殿天祥正安」に因み龍雲山広沢寺と改められた。江戸時代には寺領15石を幕府から安堵された。古来信濃三沢寺として伝えられ、小笠原家の菩提寺であることから、松本藩による明治維新直後の廃仏毀釈を免れた。本堂は延宝5年(1677年)の建造で、禅寺に多く見られる方丈様式である。境内には永享の乱で没落して諸国を放浪していた三河松平氏の祖先得川有親を、小笠原氏庶流の林光政(三河林氏の祖)が饗応した「兎田」の碑がある。貴重な書物を数多く所有し、中でも『五燈會元』は完全セットとしては世界に2つしかない(残り1つは台湾国立故宮博物院)大変貴重な物である。 (wikipedia・広沢寺_(松本市)より)]
『善光寺道名所図会』 – 林光政雪中に兎を狩(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 1巻 – 39p 」より)
[江戸時代、徳川幕府では正月元旦、年賀に訪れる家臣たちに「兎の吸物」を振舞う年中行事があり、将軍から毎年一番に頂くのが林家の当主でした。これにはこんな逸話が残ります。家康公のご先祖、世良田有親(得川有親)・親氏父子が戦に敗れ諸国放浪の途次、信州林郷に蟄居する旧知の小笠原光政を訪ねました。ご馳走するものがない光政は12月29日、雪中で一羽の兎を射止め、吸物に仕立て年賀の膳に供しました。後に松平家の当主として立身した親氏は「あの兎が瑞兆であった」と光政に林の姓を与え、侍大将として三河に呼び寄せました。以来、毎年元旦の賀宴には、松平一族よりもまず最初に光政に兎の吸物と酒盃を与えるのが常となり、林家も毎年12月29日に兎狩りをし、献上するのが恒例となりました。この故事に習い、家康公を祀る龍城神社では、例年、元旦午前0時より初詣のみなさんに兎汁が振舞われています。 (「冬の観光イベント情報 まちづくり・観光 – 岡崎市」より)]
『善光寺道名所図会』 – 金峯山 保福寺(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 1巻 – 41p 」より)
[境内の建築物としては、仁王門が1759年の建築で最も古い。1883年(明治16年)に火災に遭ったため、本堂・庫裡・鐘楼などは、それ以降の建築である。 (wikipedia・保福寺_(松本市)より)]
『善光寺道名所図会』 – 金峯山 牛伏寺(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 1巻 – 46p 」より)
[寺伝では聖徳太子が42歳の時に自ら刻んだ観音像を本尊として鉢伏山に安置したのが始まりという。寺名については、756年(天平勝宝7年)、唐からもたらされた大般若経600巻を善光寺へ奉納する途中、経典を運んでいた2頭の牛が倒れたことから「牛伏寺」の名が付いたという。なお、参道途中に建つ牛堂には2頭の牛が祀られている。寺はもとは裏山に位置し、現在地に移ったのは1534年(天文3年)である。1612年(慶長17年)と1796年(寛政8年)大火で堂宇が焼失し、現存する建物はその後の再建である。 (wikipedia・牛伏寺より)]
『善光寺道名所図会』 – 白糸の御湯(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 1巻 – 46p 」より)
[『善光寺道名所図会』本文( 1巻 – 47p )に「白糸の御湯 松本より東十八丁にあり 往昔束間(つかま)の温湯といひ又山部の湯ともいひし・・・・古き御名なり今は其郷は失せ名のみ残れり」と記述されています。]
『善光寺道名所図会』 – 下浅間の温泉ハ上浅間より引之(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 1巻 – 50p 」より)
[開湯は約1000年前。地元の豪族であった犬飼氏が天慶2年(939年)に発見したことに由来し、「犬飼の御湯」とも称される。江戸時代の慶長年間に松本藩主石川氏が別邸を置き、それより松本藩の保養を兼ねた下屋敷として使用された。温泉は、御殿湯(御殿の湯)とも称され、湯守により管理された。現在の日帰り入浴施設「枇杷の湯」がそれである。また、藩士の保養を目的とした御組の湯、柳の湯、御用馬の湯なども置かれた。元禄年間の『善光寺街道名所絵図』には、内湯や外湯を利用して旅の疲れを慰める旅人の様子が描かれており、善光寺街道に接した宿場として栄えた。 (wikipedia・浅間温泉より)]
『善光寺道名所図会』 – 熊倉の橋 穂高神社(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 1巻 – 53p 」より)
[松本を出て、道を左へ折れ、養老坂を下り、平瀬村の茶店に憩ひ、熊倉の橋(熊倉の渡し場)を渉り成相新田より穂高村に至る]
『善光寺道名所図会』 – 穂高神社(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 1巻 – 56p 」より)
[図会は穂高神社で、右ページ右下に仁科街道(千国街道)、参道内に矢原堰が描かれ、右ページ上左遠景に天神宮(北野神社)、その右に高嶌筆塚、左に天神原と記述されています。また本文「 1巻 – 54p 」に「天満宮 – 境外北の方天神原に在 側に高嶌一翁の筆塚有ㇼ」と記述されています。]
[安曇野市穂高の本宮(里宮)のほか、松本市安曇の上高地に奥宮、奥穂高岳山頂に嶺宮があることから、「日本アルプスの総鎮守」の通称がある。また、毎年9月27日に行われる例大祭(御船祭)が有名である。天保14年(1843年)の『善光寺道名所図会』には穂高神社が載せられており、当時の境内の様子がうかがわれる。 (wikipedia・穂高神社より)]
『善光寺道名所図会』 – 天神原(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 1巻 – 59p 」より)
[図会は天神原の栗尾山(満願寺)への道、栗尾街道(栗尾道) と思われます。この付近には自生のシャクナゲかレンゲツツジがあり、山でその枝切をして、麓の田圃で挿し木栽培用の枝の養生をしているように思えます、また、馬上の女性は栗尾山(満願寺)の道を田植休憩中の百姓に尋ね去る状況に思えます。]
『善光寺道名所図会』 – 安曇郡諸山 穂高岳 奥宮 三霊湖(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 1巻 – 61p 」より)
[図会左ページ中央上に穂高岳、その下に霊湖、奥の院、右ページ中央上遠景に槍ヶ岳、奥の院手前に蝶ヶ岳、その前に栗尾山(満願寺)が描かれ、その前街道に等々力村、ふたつ村と記述されています。図会は千国街道(糸魚川街道)の穂高宿(長野県安曇野市穂高等々力町)から描かれています。]
[安曇野市穂高には、「等々力(とどりき)」と「等々力町(とどりきまち)」の二つの地籍が見える。両地籍は、もともと穂高川の右岸に沿って連続した一村であったが、天正年間に分村した。 (wikipedia・等々力家より)]
『善光寺道名所図会』 – 水澤 若沢寺伽藍並雑食橋之図(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 1巻 – 64p 」より)
[若沢寺は水沢山の山腹にあった。行基が創建し、後に坂上田村麻呂が東征の折に再興させたとの伝承がある。跡地は、2011年3月22日に松本市特別史跡に指定された。標高約940mで、江戸期から数段に造成され、各段に庫裏・中堂救世殿・金堂・田村堂などが造られた。廃寺後も、それらの礎石が残っている。往時の寺の境内は周囲13kmあったというが、現在の広さは約1万1000平方メートルであり、周囲は国有林になっている。若沢寺にあった建物群のうち、「田村堂」と呼ばれる厨子1つが地元集落に移されて残っている。信仰の対象になっていた仏像も各地に散った。うち数体が地元の盛泉寺に保存・安置されている。『善光寺道名所図会』には、「上波田村水沢にあり。真言宗京都智積院に属す。寺領十石、境内囲三里半程、末寺四ケ寺」とある。 (wikipedia・若沢寺より)]
[図会左ページに往時の若沢寺伽藍、右ページ上遠景に雑食橋が描かれています。]
[雑炊橋(ぞうすいばし)とは、長野県の梓川に架かる松本市安曇の中心部と橋場集落を結ぶ道路にかかる橋。近世までは、信濃国の安曇郡と筑摩郡をつなぐ重要な橋であり、刎橋(はねばし)構造なので江戸時代には「刎橋の三橋」の1つとして知られた。現在の橋は1987年に架け替えられた片持ちの斜張橋である。橋としての歴史は長く、初めて橋が架けられたのは平安時代である。当時は両岸から「刎木」がせり出した「刎橋」という構造であった。古い史料では、雑師、雑食、雑仕、雑司などと書かれている。呼称としては、「ぞうし橋」「ぞうしの橋」だった。1834年(天保5年)の『信濃奇勝録』や、1843年(天保14年)の『善光寺道名所図会』では「雑食橋」と記され、記録の中で最も多いのは「雑司橋」である。1911年(明治44年)に、従来の刎橋から、木枠の吊り橋に架け替えられた際に、伝承と、何百年間も続けてきた架け替えの時に男女2体の人形をみのたの先端につけて渡すのを行事としてきたことにかんがみ、雑炊橋の名称に統一した。 (wikipedia・雑炊橋より)]
『善光寺道名所図会』 – 高瀬川の渡り瀬より有明山を眺望の図(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 1巻 – 66p 」より)
[安曇野市と池田町の間を高瀬川が流れ、そこに架かっている橋が高瀬橋です。ここに最初に橋が架かったのは、明治17(1884)年、今から130年ほど前になり木橋でした。穂高島新田と池田会染を結び、それ以前は北国脇往還道上にある重要な渡しで、古くから渡舟がありました。「高瀬の渡し」と呼ばれ、渡舟銭は2銭だったということです。 (「安曇野に架かる橋(9) 石楠花が描かれている高瀬橋」より)]