善光寺道名所図会(巻三)

巻三の内容
「巻三」は、篠ノ井追分から丹波島宿を経て北上すると、そこは善光寺宿である。新町(あらまち、長野市徳間付近)を経て、牟礼上水内郡飯綱町)、柏原(同郡信濃町)、野尻経由で越後に入り、関川、二股、関山、二本木・新井へと続く。善光寺に戻る。そこは北国街道の宿駅で、本来の地名は水内郡柳原庄芋井郷長野村で、如来がここに遷座後は、地名もまた善光寺と称した。善光寺の一光三尊の由来を善光寺縁起により述べる。ついで善光寺の諸堂や名所旧跡を説明する。如来堂・三門・仁王門・御供所・年神宮・毘沙門堂・寛慶寺・鐘楼・経蔵・万善堂・大勧進・大本願・六地蔵・寺中四十六坊(うち衆徒21坊、中衆15坊、妻戸10坊)・釈迦堂・駒返り橋などである。寺領は1000石である。年中行事にも、また善光寺七社・七橋・七井・七清水・七塚にも言及する。郊外に出て、栗田行部城跡・横山信濃城跡・塩沢温泉・桂山古城・飯縄里宮・飯縄奥岳・千日屋敷跡・飯縄原などにも筆がのびる。  (wikipedia・善光寺道名所図会より)

『善光寺道名所図会』 – 三輪村 美和神社(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 3巻 – 4p 」より)

[長野市街地にほど近い住宅街の駅前にあるが、境内は森閑としている。特徴的な三ツ鳥居(三輪鳥居)が立ち、境内には100近い石祠群(境内百末社)が立ち並ぶ。この石祠群の神々に祝膳を捧げる越年祭は、他に類を見ない特殊神事である。 特殊神事 – 越年祭 (12月16日)、当社境内の石祠に祀られている全国一宮の神々に対して、祝膳が捧げられる。  (wikipedia・美和神社_(長野市)より)]

『善光寺道名所図会』 – 定額山善光寺寺中図(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 3巻 – 5p 」、「 3巻 – 6p 」、「 3巻 – 7p 」より)(拡大図)

[善光寺の特徴として、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済が挙げられる。そのため、江戸時代には女性の参詣者が非常に多いという特異な現象があった(昔、女性の旅行者はまれだった)。また、善光寺参詣で得られるのは現世利益ではなく、死後の極楽往生だった。身分も男女も善悪も問わず、どんな人でも必ず極楽往生できる、という善光寺の特色が、全国から人々をひきつけたと言える。  (wikipedia・善光寺より)]

『善光寺道名所図会』 – 和漢三才図会(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 3巻 – 23p 」より)

[和漢三才図会 – 欽明天皇(539年? – 571年)十三年本尊如来自百済渡来ル而モ末信推古天皇(593年 – 628年)元年草創建寺於伊那郡麻続里宇治村]
[善光寺の本尊「一光三尊阿弥陀如来」は、天竺の月蓋長者が鋳写したものとされ、百済の聖王(聖明王)を経て献呈された日本最古の仏とされる。日本に来るも廃仏派の物部氏によって難波の堀江に捨てられるが、本田善光(若麻續東人とも言う)に拾われ(一説に和光寺)、信濃元善光寺へ、次いで現在地に遷座したと伝えられる。ここまでは伝説であり、実際の創建の経緯は不明である。
有力なのは、善光寺は天武天皇(673年 – 686年)時に日本全国で造られた郡寺(郡衙隣接寺院、信濃国水内郡金刺舎人)のひとつで、金刺氏が創建に関わったという説である。『伊呂波字類抄』引用の善光寺古縁起に、「皇極元年(642年)若麻績東人、水内郡の宅を改めて草堂となす」とあるように、善光寺は元々「草堂」であったとされる。しかし、後に瓦葺きとなった。
善光寺に用いられていたのは「川原寺式瓦」というものであるが、この瓦は地方豪族のいた地域(品部名代などの王権や中央豪族部民が存在しない地域)のみに存在していることから、善光寺は地元の豪族(金刺氏)の影響を強く受けていると考えられる。善光寺のものと確証が得られている訳ではないが、境内の遺跡から出土した古代寺院の古瓦は9世紀の物と鑑定されている。これらのことから、遅くても平安時代初期頃までには瓦葺きの建物を持つ寺が現在地にあったのは確かなことであり、おそらくは金刺氏かその一族若麻績氏が建立したのであろう。善光寺が草堂から瓦葺の寺院となったのは、壬申の乱の影響であり、多品治が同族である金刺氏他田氏を率いて功績を残したことがきっかけであるとされる。  (wikipedia・善光寺より)]

『善光寺道名所図会』 – 正月朔日卯の時如来堂にて年賀の規式(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 3巻 – 27p 」より)

『善光寺道名所図会』 – 御血脉頂戴の図(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 3巻 – 30p 」より)

[善光寺信仰はこの教義とは呼べない融通念仏を根本に据えたことで、宗派に関わらず信仰を集めることができた。極楽行のパスポートである「お血脈(融通念仏血脈譜)」を授与された者には、日課念仏百回が課された。一日百回の念仏が見ず知らずの者同士をつなぎ合わせ、膨大な念仏の輪ができあがる理屈になっている。このようにして民衆の爆発的な支持を得た善光寺の「お血脈」は、等順一代で 180 万部を頒布(はんぷ)し、社会現象化した。これが落語「おけちみゃく」の創作へとつながってゆく。この話の中に出てくるのは、本当は「お血脈」ではなく「御印文(ごいんもん・極楽行の印鑑)頂戴」であるが、それにも関わらずその名が題名となっているのは、当時「お血脈」が善光寺の代名詞であったことを示している。嘉永 2 年(1849)に刊行した善光寺参詣のガイドブック『善光寺道名所図会』には「御血脉(おちみゃく)頂戴(ちょうだい)の図」が掲載されている。ここではおそらく大勧進であろう建物の中で、住職から「お血脈」が一人ずつに手渡されている。絵図には「血脈をいただくけふ(今日)の嬉しさは極楽へゆく心地こそすれ」が添えられており、かつて「お血脈」を手にすることが善光寺参詣の大きな目的だったことが分かる。  (「3. 世界一短いお経「南無阿弥陀仏」 – 松本市」より)]

『善光寺道名所図会』 – 善光寺宿驛繁花茶屋の図(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 3巻 – 33p 」より)

善光寺参道のカメラです。

『善光寺道名所図会』 – 妻科村 妻科神社(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 3巻 – 37p 」より)

『善光寺道名所図会』 – 薬山 ぶらんどの薬師 長原乃温泉 山吹の瀬(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 3巻 – 42p 」より)

[絵図左ページ上にぶらんどの薬師が描かれ参道口右に山吹の瀬(浅川)が描かれています。]
[長野市浅川一ノ瀬の薬山に建つ八櫛神社。地元では「ブランド薬師」と呼ばれるこの神社の社殿は、崖に穴を開け、打ち込んだ材木の上に社殿を建てる「懸(かけ)造り」と呼ばれる独特な構造で、平成30年3月には長野市の有形文化財に指定されました。江戸時代後期に記された「善光寺名所図会」にも「薬山ぶらんど薬師」として紹介されており、挿絵には近くにあったとされる「長原乃温泉」や、「山吹の瀬」と呼ばれた当時の浅川の様子などが描かれています。  (「長野・市指定有形文化財 八櫛神社社殿(ブランド薬師)」より)]

『善光寺道名所図会』 – 湯福神祠 戸隠街道 塩澤温泉 横沢丁八幡(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 3巻 – 44p 」より)

[図会右ページ右下に「横沢町」、その左に「八マン」と記述、「八マン」左上に湯福神社が描かれ、境内地左に「戸ガクシ道」が描かれ、その先遠景に塩澤温泉と記述されています。]

『善光寺道名所図会』 – 飯縄の里宮 同奥之院 鍋蓋権現 仁科氏の宅(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 3巻 – 46p 」より)

[全国に祭祀されている飯縄神社の惣社である。1233年(天福元年)信濃国荻野(信州新町)の地頭 伊藤兵部太夫豊前守忠綱が、飯縄大明神のお告げにより入山し、山頂に飯縄大権現を勧請する。忠綱の子、盛綱も忠綱に従い入山し、荼枳尼天の法を修得、忠綱より飯縄の法を受継ぎ、飯縄原始忍法を確立、自ら「千日太夫」と称し、飯縄信仰を全国に広げると共に忍法の祖となる。  (wikipedia・飯縄神社より)]