善光寺道名所図会(巻二)

巻二の内容
「巻二」は、まず池田(北安曇郡池田町)の宿駅にともなう名所旧跡として、宮本神明宮の一の鳥居・二の鳥居・三の鳥居・末社・神宮寺にふれる。ついで大町宿大町市)に入る。ここは、繁昌の地で富家が多い。仁科古城を見た後、青木湖中綱湖に遊び、再度本街道にもどって松本経由で岡田宿に入る。次に間(あい)の宿の仮屋原宿を経て、会田宿に至り、岩井堂を見てから立峠を越え、次の青柳宿では、青柳氏の古城跡と大切通し、小切通しなどにふれる。次は麻績宿である。ここでは法善寺、庚申の祠、反古塚、光明寺、麻績神明宮や周辺にある数多くの石仏などにふれる。次の稲荷山宿へは3里であるが、この間に猿ヶ馬場峠がある。稲荷山宿は、名勝旧跡に恵まれる。武水別神社があり、八幡宮ともいわれる。姥捨山伝説で名高い姥捨山の放光院長楽寺は八幡の神宮寺の支院である。ここは、昔から多数の和歌に詠われる。冠着山(姥捨山)を遠く見て、長谷寺、康楽寺を見て歩く。篠ノ井追分にかかり、北に通ずる山道を行くと、久米路橋にかかる。牧之島城を見て、再度追分にもどる。  (wikipedia・善光寺道名所図会より)

『善光寺道名所図会』 – 志村氏林泉の図(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 2巻 – 4p 」より)

[平安時代の後期、現在の大町市社(やしろ)には、伊勢神宮庄園である仁科御厨(にしなみくりや)がありました。御厨を支配していた御厨司(みくりやつかさ)が仁科氏です。仁科氏は、伊勢神宮内宮を勧請(かんじょう)して、仁科神明宮をまつり、都の文化を取りいれました。仁科神明宮は、伊勢神宮にならって20年ごとに本殿などの建替え(式年造営・しきねんぞうえい)を行ってきましたが、仁科氏が滅亡した後は、寛永 13 年(1637)から一部の修復だけ行うようになりました。その結果、わが国の伝統的な建築様式である神明造の古い様式が残り、本殿と中門、釣屋(つりや)は国宝に指定されています。  (「仁科氏歴史文化展 – 大町市観光協会」より)]

『善光寺道名所図会』 – 清音の滝(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 2巻 – 6p 」より)

[弾誓寺覚阿上人によって発案された仁科三十三番札所の成立が、 江戸時代中期の宝暦7年(1757)。滝壷近くに芭蕉没後百年を記念して、地元常光寺村庄屋の横川青雅によって建立された芭蕉句碑は、寛政5年(1793)建立されるなど、文人墨客にも愛され大切にされた雅な地でもありました。江戸後期には観光名所として喧伝された「仁科十二景」の中にも清音の滝は紹介されています。また豊田利忠によって善光寺参拝のための旅のガイドブックである『善光寺街道名所図絵』にこの滝が紹介されたのが嘉永2年(1849)年と、数百年にわたり大町を代表する低地観光の名所であったことがわかります。   (「清音の滝 – 大町山岳博物館」より)]

『善光寺道名所図会』 – 仁科本城跡(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 2巻 – 14p 」より)

[湖に飛び出した地形を巧(たく)みに利用しており、戦国時代まで、この地方を支配してきた仁科氏が拠点とした城です。今の大町西小学校の場所が仁科氏の館(やかた)跡(あと)で、この城は館を守るための、後詰(あとづ)めの城(しろ)として築(きず)かれたようです。古代から、糸魚川から松本へ塩を運ぶために整備された「塩の道」は、はじめこの付近を通過していましたが、江戸時代後半には対岸を通るようになり、『善光寺道名所図会』には、対岸から眺めた風景が描かれています。  (「森城(仁科城跡) 仁科神社 – デジタル教材詳細 | 大町のひ・み・つ」より)]

『善光寺道名所図会』 – 佐野の二僧墳碑銘(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 2巻 – 19p 」より)

『善光寺道名所図会』 – 立峠 岩井堂観音(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 2巻 – 27p 」より)

[図会左ページに岩井堂観音、右ページ下中央に馬頭観音、右端上に立峠が描かれています。]

『善光寺道名所図会』 – 舟森山 神明宮(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 2巻 – 29p 」より)

『善光寺道名所図会』 – 湯股澤にて霰石を採る圖(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 2巻 – 30p 」より)

[霰石 – アラレ石]
[霰石の化学組成は方解石と同じですが、両者は結晶の構造が異なっています。産出量は方解石に比べて少なく、霰石として形成されたものが方解石に変わる場合もあります。英語の鉱物名はアラゴナイトといいます。スペインアラゴン地方から産出したので、地名に因んで命名されました。日本名は、長野県で採れた球形の鉱物(霰石と呼ばれていた)は豆石であると考えられていたので、その名を転用したものです。ところが、後の分析で、長野の球形鉱物は方解石であることが判明し、霰石という鉱物名は不適切なものになりました。しかしながら、霰石という鉱物名が普及していたために、改名されることなく、現在でも使用されています。  (「霰石(あられ石) – iStone」より)]

『善光寺道名所図会』 – 青柳の切通し(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 2巻 – 32p 」より)

[筑北村坂北の青柳地区は、江戸時代、善光寺街道の宿場町でした。そんな青柳地区のはずれに、岩山を切り開いた「大切通し」があります。1580年、青柳伊勢守頼長が切り開き、その後更に3回切り広げられました。石工のノミ跡が今も残っています。また、江戸時代に庶民が作ったとされる百体観音像や馬頭観音が点在しています。この「大切通し」の開通により、旅人の旅程が楽になったことは想像に難くありません。「是に依て、旅人并に牛馬の往来聊も煩ハしき事なく、野を越え山を越して麻績宿に到る」と善光寺道名所図会には記されています。  (「地域の宝を再発見!善光寺街道青柳宿の切通し – しあわせ信州」より)]

『善光寺道名所図会』 – 猿ヶ馬場下ㇼ坂燧石より眺望十勝の撰の里(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 2巻 – 34p 」より)

[図会左ページ左上に「夜ヶ池(聖湖)」、「猿馬場峠」、その右遠景に「戸隠山」、その下に「ヒウチ石」(火打石の一里塚)と記述され、そこの左下に「姨捨山(冠着山)」、「姨捨山」の右下に「イナリ山(稲荷山宿)」、絵図下に「チクマ川(千曲川)」が描かれています。右ページには下左に「川中島霧」と記述され、川中島古戦場跡が想起されます。その上に「岡田茶臼山」と記述され、武田信玄本陣跡を印し、絵図右下に犀川善光寺が描かれています。ちなみに上杉謙信の本陣は妻女山とされますが、図会には描かれていません。図会の位置としては「川中島霧」の左側、図会中央の千曲川下あたりになります。]
[聖湖は江戸時代には笹が生い茂る暗い池で「夜ヶ池」と呼ばれた。  (「猿ヶ馬場峠越え 善光寺街道|街道を歩く旅 ウォーキング記録」より)]

『善光寺道名所図会』 – 八幡村八幡宮(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 2巻 – 37p 」より)

[武水別神社一帯は平安時代末期より石清水八幡宮荘園(小谷之荘)となっており、安和年間(968年-970年)に石清水八幡宮から八幡神(相殿の3柱)が勧請されたと伝える。八幡神は源氏氏神としても知られ、武水別神社はこの地方随一の八幡宮として広く武門の崇敬を受けた。また木曾義仲が祈願したと伝えられるほか、川中島の戦い時の上杉謙信の勧請文なども残されている。そして武田信玄はこの地に本陣を構えたとも伝えられている。明治に入り、それまで称していた「八幡宮」から「武水別神社」の社名に復した。  (wikipedia・武水別神社より)]

『善光寺道名所図会』 – 放光院長楽寺(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 2巻 – 42p 」より)

[本堂庫裏は、天保5年(1834年)に再建されたとあるが、建築様式から文化文政年間(1804-1829年)の建築と推定されている。本堂に接する観月殿は、元治元年(1864年)の奉納額が飾られていることや、建築様式からこの頃の建築と推定されている(2007年(平成19年)度保存修理)。
おもかげ塚の上方に建つ月見堂は、本堂と同じ頃の建築とされており、2003年(平成15年)度に保存修理が行われた。また、境内の上方に建つ観音堂は、元禄4年(1691年)に再建されたとあるが、虹梁の絵様の様式から宝暦明和年間(1751-1771年)の再建と推定されている(2004年(平成16年)度保存修理)。
境内にある「姨石(姨岩)」は、高さ約15 m、幅約25 m、奥行約25 mあり、頂上からは長野盆地を一望でき、月の眺めも別格である。江戸時代後期の紀行文作家であった菅江真澄は夥しい人々がこの岩の上からの月見をしている様子を絵(秋田県立博物館所蔵)に残している。なお、この岩が姨捨山縁起から伝説の姨捨山だと伝えられている。
姨捨(田毎の月)は国の名勝に指定されている。
千枚田や四十八枚田と言われる棚田の向こうに広がる長野盆地は善光寺平、川中島平とも言われる。その景色は全てが武田氏上杉氏の12年間5度に亘る川中島の戦いの戦場でもあった。  (wikipedia・長楽寺_(千曲市)より)]

『善光寺道名所図会』 – 更科の里の月見(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 2巻 – 49p 」より)

[現在の千曲市一帯が「月の都」と文化庁から認定されたのは、市の中央を流れる千曲川の西側が「さらしなの里」(旧更級郡)と呼ばれる地域であることが大きく関係しています。さらしなの里のシンボルである冠着山(姨捨山)にかかる月は、千年以上前からたくさんの和歌に詠まれ、さらしなの里は「月の都」として日本人のあこがれになりました。
さらしなの里には、冠着山や鏡台山、姨捨の棚田、千曲川といった月を美しく見せる舞台装置がそろい、古代から都とつながっている道(東山道の支道、冠着山の尾根筋の古峠越え)が通っていたことも人々を引き寄せた理由です。
室町江戸時代になると、千曲川を挟んで冠着山の対岸にある山が「鏡台山」と名づけられ、さらしなの月が上る舞台の山と称賛されるようになりました。「姨捨の棚田」も盛んに開発され、水を張ったたくさんの田に映る月の光景がイメージされ、ついに「田毎の月」という言葉を生みだしました。そうして「月の都」は重層的な美しさを放ち、一層多くの人たちのあこがれとなりました。  (「月の都の歴史 – 日本遺産 月の都千曲」より)]

姨捨の棚田の鳥瞰カメラです。

『善光寺道名所図会』 – 金峯山長谷寺(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 2巻 – 53p 」より)

[日本の三長谷のひとつに数えられる塩崎の長谷寺は、長谷部落から高い階段を登った山腹にある。登り口の仁王門から千曲川の近くまで数百メートルにおよぶ参道には、むかしの長谷観音の盛時をしのばせる並木が続き、平安朝の面影を残している。
観音像はもとは更埴市桑原の長福寺の本尊だったが、同寺が廃寺となり、同じ真言宗の長谷寺に移されて客仏となったものである。
観音の特徴ある形は、鎌倉時代快慶が創始した安阿弥様によるものだが、衲衣の襟下や腕から垂れ下がる袖の反転などに支那宋朝様式がみられ、鎌倉時代中葉にかかる作と思われる。  (「長谷寺 | ふるさと探訪 | JAグリーン長野について」より)]

『善光寺道名所図会』 – 白鳥山康楽寺門前の図(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 2巻 – 57p 」より)

[更級郡塩崎村長野市篠ノ井塩崎)にある浄土真宗の寺院。白鳥山報恩院。親鸞の高弟西佛坊浄寛(寛明)の開創で、小県郡海野庄白鳥(東御市)に堂宇を建立。2世の浄賀は『親鸞聖人絵伝』を著す。弘治年中(1555~58)に現在地に移る。永禄11年(1568)武田信玄から寺領80貫文を安堵された。本山直末寺院。同寺の所有する戦国期の文書が「康楽寺文書」である。  (「(更級郡)康楽寺文書(1) 5通 写 | 信州デジタルコモンズ」より)]

『善光寺道名所図会』 – 久米路の橋又水内橋 撞木橋といふ(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 2巻 – 61p 」より)

[長野市指定名勝 久米路峡  昭和40年6月26日指定
 久米路峡はおよそ420万年前、新生代第三紀鮮新世に活動した火山の噴出物と考えられる安山岩角礫からなる凝灰角礫岩で出来ている。この岩石は周囲の地層より硬く、隆起にともなう犀川の浸食の障害となり、峡谷となったものである。ここは犀川水系中流域で最も狭く、古来より何回か橋が架け替えられてきた。
 架橋の記録として現存する最古のものは、慶長16年(1611)の水内橋勧進帳であるが、この中にもこれ以前に橋が架けられていたことが伝えられている。
 名勝名橋として文人墨客が訪れ、古くは「信濃地名考」「信濃奇勝録」等多くの書籍に記載されている。明治32年、浅井洌もここを訪れ、県歌「信濃の国」に「心してゆけ久米路橋」と歌いこんでいる。
 水内発電所のダムの湛水のため、昔日の面影は薄れたが、両岸の切り立った岩壁に往時を偲ぶことができる。
 長野県教育委員会  (「旅 825 2018年のお盆(3) 久米路橋など」より)]