巻五の内容
「巻五」は、上田城下(上田市)に入る前に、上田新町から右に分かれ、千曲川の橋を渡り、別所七久里温泉に向かう。そこは、温泉郷であり、名所旧跡に富んだところでもある。常楽寺・安楽寺・別所北向観音などがある。上田の町にもどる。ここは、松平伊賀守5万8000石の居城である。産物には、上田嶋・紬島・白紬などがある。上田より1里のところに国分寺があり、三重塔がある。次の宿場は海野宿である。道の左側に白鳥神社があり、海野小太郎の城址もある。次は田中宿である。ここは海野宿と次の小諸宿との間の宿である。小諸宿は、牧野侯の居城で、この城下から布引山観音へは1里余である。小諸宿にもどって、浅間山を左に見て、追分・沓掛・軽井沢の浅間三宿に入る。峠道をあえいで登ると、そこは碓氷峠の国境である。付録に、関東大川の水源・信濃国内謡曲目録・信州名物・蓼科山・金峯山の山男・物臭太郎物語などがある。 (wikipedia・善光寺道名所図会より)
『善光寺道名所図会』 – 別所細見総図(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 5巻 – 8p 」より)
[図会は北側、常楽寺、安楽寺側から南側を描いています。左ページ中央下に常楽寺、熊野宮、その上に左から大湯、北向堂、不動堂、鐘楼、右ページ下に安楽寺、その上湯川沿いに大し湯、いしゆが描かれています。]
[別所温泉(べっしょおんせん)は、長野県上田市にある温泉である。標高約570mの高地にある、信州最古と伝わる温泉地で、日本武尊が7か所に温泉を開き「七苦離の温泉」と名付けたという伝説から「七久里の湯」とも呼ばれる。共同浴場(外湯)を中心に栄え、現在も3つの共同浴場「大湯」「大師湯」「石湯」が存在する。温泉街は大湯を中心とする「大湯地区」(別所温泉駅から徒歩7~8分程度)と北向観音周辺の「院内地区」(別所温泉駅から徒歩15分程度)に分かれているが、相互の距離は近く、10分足らずで行き来できる。大湯は木曾義仲、大師湯は円仁(慈覚大師)、石湯は真田幸村ゆかりの湯(後述)として知られている。江戸時代には更に大湯地区に「長命湯(玄斉湯」、院内地区に「久我湯」が有ったが、1929年までに各温泉旅館が「長命湯(玄斉湯)」「久我湯」から引湯し、全旅館が内湯を整備したため現存していない。 (wikipedia・別所温泉より)]
『善光寺道名所図会』 – 上田大宮(科野大宮社)(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 5巻 – 16p 」より)
[当社は古来「総社大宮」「科野国魂神」と称したといわれ、中世には常田荘の中心に位置し、「大宮諏訪大明神」と称したと伝える。康安2年(1362年)には関東管領足利基氏が、彗星出現につき天下安全を当社に祈り、願文を奉ったとされる。
真田氏による上田城築城以来、当社は城の鎮守と定められ、信濃国分寺三重塔と当社は藩費をもって修繕したという。寛文9年(1669年)頃の城下町古地図には「常田村大宮」と記載されている。
明治に入り、近代社格制度においては県社に列し、社名を現在の「科野大宮社」に改めた。 (wikipedia・科野大宮社より)]
『善光寺道名所図会』 – 上田呉服店 上田縞を名産と(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 5巻 – 19p 」より)
[上田縞(上田嶋・うえだじま)・上田紬(つむぎ)は絹織物で、江戸時代から明治・大正期にかけての上田の名産品だった。江戸時代後期の文化・文政ごろには江戸文学の洒落本などにも、その名がしばしば出てくる。嘉永2年(1849)の『善光寺道名所図会(ずえ)』には「(上田の)産物には上田縞紬縞白紬など近在より織出し、城下にも織屋呉服屋ありて諸国へ送る、又上品の織物を製して一都会といふべし」とある。 (「上田縞着物 | 上田市立博物館」より)]
[大島、結城と並んで日本の三大つむぎと謳われている上田紬の歴史は古く、十四世紀前半の文献にも登場してくる。戦国乱世の時代が終わり世の中が落ち着きを取り戻すと、養蚕業が定着し始め、年々生産量も増加、やがて「上田縞(じま)」の銘柄をつけ世に出ることとなる。
当初、上田紬は、経(縦)糸に繭を真綿にし、そこからつむいだ生糸を、緯(横)糸には生糸を使い織り上げた白生地を指し、経、緯とも生糸で織るが、糸のうちに草木染めを施してから織り込んだ。いわゆる先染め独特の光沢と渋味のある縞柄が特長である。
これより先、上田に築城した真田昌幸は、領内で、現在は真田紐で知られる「真田織」を奨励した。科の木の皮に麻などを織り込んだもので、紬と違い絹織物ではなかったが上田紬の基をなした。
そして何より上田縞を全国に広めたのは、昌幸、幸村父子である関ヶ原の合戦の際の上田場籠城戦での勝利、大阪冬夏の陣での幸村の活躍は「上田は強い」というイメージを庶民に抱かせ、それが「上田縞は強い」という世評を生んでいった。
事実、上田縞は「裏三代」といわれ、裏地を三度取り換えるほど長持ちするといわれ、親から子へ、子から孫へと宝物のように伝えられた。また当時の古川柳にも「上田の古着大阪でひとあばれ」(大阪の陣での幸村の活躍)「東西へ一反づつの上田縞、銭づかい上手にしたは安房寺(昌幸)」(昌幸、幸村は西軍、信之は東軍)等真田と上田縞の強さが数多く詠まれている。
仙石、松平氏の歴代上田藩主も生産を奨励上田縞の人気は続くが明治後半、力織機の普及により、手間のかかる上田縞は姿を消すが、その柄は白生地であった上田紬に襲用され、今日の上田紬となった。その上田紬も第二次大戦中、桑畑が麦畑に変わり一時的だが絶滅する。しかし戦後に復興、反物だけでなく身近な小物類まで製品化され風趣ある上田の名産として人気が広まっている。 (「上田唱歌 三十六番」より)]
『善光寺道名所図会』 – 白鳥社 石華表 同額の文字白鳥宮(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 5巻 – 23p 」より)
[『善光寺道名所図会』本文( 5巻 – 20p )白鳥大明神[海野宿町中左側にあり]例祭八月十二日、相撲ありて近里遠境の角力取共寄集り、見物の貴賤群集をなす、上田の士民多し、神主石和氏 (「NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ – 小県郡海野」より)]
『善光寺道名所図会』 – 布引山 釈尊寺(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 5巻 – 30p 」より)
[観音堂宮殿(かんのんどうくうでん)
棟札により鎌倉時代の正嘉2年(1258年)の造立と判明した建築物。岩屋の中に祀られていたことにより戦火を免れて今日に至る。観音堂内にある仏殿形の厨子で、地方的な未熟さがなく、美術史上重要であるとして、昭和24年(1949年)国の重要文化財に指定。入母屋造、板葺であって、梅鉢懸魚や軒下の蟇股(かえるまた)、地長押の下の格狭間(ごうざま)など、細部の形式に鎌倉時代建築の特色を示す。特に鎌倉時代の梅鉢懸魚は、現代に残る唯一の遺物である。 (wikipedia・釈尊寺#重要文化財より)]
『善光寺道名所図会』 – 浅間嶽 馬瀬口 濁川 三ッ谷(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 5巻 – 33p 」より)
[北国街道では、追分宿と小諸宿の間が距離がありすぎて、通行に支障をきたすことから、元和6年(1620)に馬瀬口村(現・北佐久郡御代田町馬瀬口)が開かれたといわれます。天明3年(1783)、想像を絶する浅間山の大噴火がありましたが、人々は屈することなくたくましく行き抜いたことが古文書に記されています。 (「沿革 – 御代田町」より)]
馬瀬口の一里塚からの浅間山。