巻四の内容
「巻四」は、善光寺西北方にある戸隠三院にふれる。善光寺から戸隠中院へ行くには、荒安から1里登り、入坂(にゅうざか)経由で飯縄原へ出、戸隠一の鳥居に出る。この辺りから戸隠神領で、守護不入の地となる。中院権現まで53丁あり、1丁ごとに石標(丁石)がある。戸隠領は1000石で、中院坊舎は12院である。中院から奥院に行く前に、宝光院に詣で、神楽殿・鐘楼・本社を見る。宝光院も12院である。最後に奥院をみる。奥院に至るには女人堂・釈長命火定所・稚児の塔・朱の鳥居・仁王門経由で奥の院権現本社へ行く。奥院も12院である。戸隠の裏山は乙妻・高妻の高山である。鬼無里経由で山を下り、北国街道を善光寺宿から一路軽井沢宿に向かう。犀川の渡し口を越え丹波宿に至る。矢代宿に行く前に松代城下に迂回すると、川中島の古戦場に出る。武田氏・上杉氏の激戦の跡から矢代宿に出る。下戸倉宿(千曲市)から坂木宿(坂城町)へ。ここは、戦国大名村上氏の根拠地である。 (wikipedia・善光寺道名所図会より)
『善光寺道名所図会』 – 戸隠山一ノ鳥居 中院権現 宝光院権現(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 4巻 – 6p 」、「 4巻 – 7p 」より)
[図会左ページ左上に「宝光院ごんげん」、その下に宝光院鳥居、中ページ上中央に中院権現、その下に中社 大鳥居、火之御子社、西行桜、右ページ左下に大久保村、中央右端に戸隠一ノ鳥居が描かれています。]
『善光寺道名所図会』 – 戸隠山一ノ鳥居 中院権現 宝光院権現(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 4巻 – 10p 」、「 4巻 – 11p 」より)
[図会左ページ右端中央下に九頭龍大権現、そこの右、中ページに奥之院本社、その下中ページ左下に仁王門、中ページ右下に奥社 大鳥居と逆川が描かれています。右ページ右端中央上に黒姫山、その麓に越前道が描かれています。]
『善光寺道名所図会』 – 犀川渡舩(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 4巻 – 17p 」より)
[丹波島宿の中央に本陣と問屋があり、柳島家が世襲した。宿場の西端には於佐加神社が鎮座し、火除けとして秋葉神社が勧請された。東端には枡形があり、宿場の北方には「丹波島の渡し」が設けられ、善光寺の南の玄関口として重要な機能を担った。明治6年(1874年)に船橋が架けられ、渡し場は廃止された。 (wikipedia・丹波島宿より)]
『善光寺道名所図会』 – 北原村大仏接待所(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 4巻 – 20p 」より)
[長野市川中島町今井の北原区で、明治初期まで一緒にまつられていた100体の観音像「百番観音」。百番観音は高さ3メートルほどの「北原大仏」を安置した「大仏接待所」にあった。いずれも高さ30センチほどの木製。江戸後期に、観音霊場として有名な西国、坂東の各33カ所、秩父34カ所の寺院の観音像をそれぞれ模して作られた。明治政府が住職や檀家(だんか)のいない寺を廃止する令を出したことを受け、大仏接待所は取り壊され、大仏は近くの寺に移された。百番観音は1873(明治6)年、約90戸あった北原村の各戸に、1体ずつを基本に配られた。 (「廃仏毀釈を乗り越えた「百番観音」 長野で29体展示 – www8」より)]
『善光寺道名所図会』 – 立石の茶屋(旧北国街道 篠ノ井追分宿碑)(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 4巻 – 34p 」より)
[篠ノ井追分には「立石の茶屋」があり、「柳屋」という茶屋があり、川中島古戦場の図や姨捨山の絵なども売っていたと書かれています。 (「稲荷山宿~丹波島宿|日本の街道を歩く旅」より)]
『善光寺道名所図会』 – 芝村阿弥陀堂 山本道鬼碑(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 4巻 – 38p 」より)
[勘助塚と呼ばれる墓は、もともと現在の墓の南、八幡原の胴合橋(山本勘助の首と胴を合わせたところから「胴合」の地名が付いたと伝承)にありましたが、千曲川の川筋が変わり、墳墓は川中となったため、寛永年間(1624年〜1643年)、対岸の寺尾村高畑に移葬。文化6年(1809年)、山本勘助の没後250年にあわせて、鎌原重孝の孫で、松代藩家老、漢学者の鎌原重賢(かんばらしげたか)が末長く墓が守られるようにと、中台を設け土台を高く石積みにしています(これが現存する墓です)。碑面には「山本道鬼居士墓」と刻まれています。勘助は出家後、道鬼と称したため、墓碑銘は山本道鬼に。柴阿弥陀堂は昭和の初め、千曲川河川改修の際に堤外地となったため移築されています。 (「山本勘助の墓 | 信州Style」より)]
『善光寺道名所図会』 – 屋代宿 養蚕(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 4巻 – 45p 」より)
[『善光寺道名所図会』本文( 4巻 – 45p)埴科郡矢代 – 坂本へ三里、昔ハ社又屋代とも書す、八丁程相対して巷をなし、其余町裏に散在して農家多し、此宿一重山の麓にて、西浦は千曲川北流す。此辺養蚕の家多し、木曽の山中、其外山間の田畠少き辺ハ、是をいとなみて世を渡る扶とするも又優し、折から繭の揚り前とて、家毎に閙ハしく、如何なる姥小女も雇れ、桑の持はこび松が枝の折敷など手々に携へて、故郷にてハ見馴ぬ産業も又珍らかなり。
現代訳
坂本へは3里あります。昔は「社」あるいは「屋代」とも書きました。矢代宿は、8丁ほどの間が、にぎやかな町通りです。町の裏には多くの農家が散在しています。この宿は一重山のふもとにあり、西には千曲川が流れています。このあたりには、養蚕農家が多くあります。木曽の山中や、山間部で田畑が少ない村では、養蚕をして、生活の助けにしています。
矢代では、繭ができる前の時期にあたり、どの家もさわがしく、忙しそうでした。老婦から女の子まで雇われ、桑の運搬や松の枝の折敷を手に携えるなどして働いていました。故郷では見慣れない産業であり、めずらしい風景です。 (「NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ」より)]
『善光寺道名所図会』 – 矢代宿 日吉山王宮 一重山 鼻取地蔵(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 4巻 – 47p 」より)
[社伝では白鳳2年(673年)に創建され、当初は式内社の「祝(ほうり)神社」と称したが、貞観年間に千曲川の洪水を受けて、埴科郡大領の金刺舎人正長が、比叡山日吉大社より山王権現を勧請して相殿に合祀した。天明元年(1781年)神祇管領吉田家により「山王大権現宮」から「須須岐水神社」と改められた。 (wikipedia・須須岐水神社_(千曲市)より)]
『善光寺道名所図会』 – 雨の宮村山王宮 唐崎明神(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 4巻 – 49p 」より)
[雨宮の神事芸能は同社の祈年祭として行われるもので「雨宮の御神事」「獅子踊り」とも呼ばれる。起源ははっきりしないが500年を超える伝統があるといわれている。祭りは社殿での遷座式の神事の後、町太鼓と呼ぶふれ太鼓の合図で、祭り装束に整えた諸役が社前に参集して行われる。その社前で朝踊りと呼ぶ御神事踊りが行われる。笛、太鼓、神事歌にあわせ、六大神が面を付け「御鍬(おんくわ)」「獅子」とともに踊る。武者や神輿が出て若宮社などへ場所を移して、それぞれの場所で「御神事踊り」が行われ、行列が鳥居前に戻ると獅子頭の白紙をはがす「化粧落とし」、生仁川(なまにがわ)の斎場橋から獅子頭を逆さにつるし、獅子が水面を叩く「橋懸り」と呼ぶ神事が行われる。最後に唐崎社で「山踊り」と呼ぶ御神事踊りが行われて社前に戻り、祭りは終わる。 (「雨宮の神事芸能 – 信州の文化財 – 八十二文化財団」より)]
『善光寺道名所図会』 – 坂木宿(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 4巻 – 54p 」より)
[図会は坂木宿(坂城町)を南から北方向を描いています。左ページに千曲川、右ページに坂木宿、坂木宿の手前から村上義清公墓所(供養塔)、心光寺、満泉寺(村上氏館跡)、大宮(坂城神社)、西仙寺が記述され、山並みが右から五里ヶ峯、葛尾城跡、横吹が描かれています。]
[坂木宿(さかきじゅく)は、長野県坂城町坂城にあった北国街道の宿場。慶長8年(1603年)に伝馬宿として成立。当初の宿場は立町と横町から成っていたが、参勤交代や善光寺詣り等によって通行が増加したため、越後高田藩領であった時代に、代官の長谷川利次は宿場を北に拡張させ、大門町と新町を新設し、また3ヶ所の井戸を掘り、街道中央に長谷川用水を流して並木を設けた。特に加賀藩主前田氏の通行の際は、500人を越える家臣団が宿泊した。北国街道では善光寺門前の権堂村に次ぐ規模の遊郭が存在した。
本陣は1軒、問屋は2軒、名主は2軒であり、嘉永7年(1854年)には旅籠が64軒を数えた。本陣は宮原家が世襲し、長屋門の遺構は昭和初期に建てられた坂木宿ふるさと歴史館に残されている。南端には村上義清墓所のある田町十王堂、北端には善光寺常夜燈がある。
元和8年(1622年)に天領となり坂木陣屋が置かれた。天和2年(1682年)に坂木藩が立藩したが、元禄15年(1702年)に廃藩、明和4年(1767年)には坂木陣屋が火災で焼失し、安永7年(1778年)、1.7 kmほど上田宿寄りに中之条陣屋として再建された。 (wikipedia・坂木宿より)]
『善光寺道名所図会』 – 埴科郡鼠宿(「善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「 4巻 – 60p 」より)
[図会左ページ中央に會地早雄神社、その左に口留番所、新地村、鼠宿村が描かれ、右に「クラカケ岩」辺りが、鞍掛橋と思われます、具足岩は現在の北国街道建設拡充により削除されたようです。具足岩上に岩鼻、さらにその上に和合城跡(村上氏連珠砦)、右ページに下シホジリ(下塩尻)、上シホジリ(上塩尻)と記述されています。下塩尻は上田藩領でここにも口留番所がありました。]
[鼠宿(ねずみじゅく)は、長野県坂城町南条にあった北国街道の間の宿(あいのしゅく)であり、上田宿と坂木宿の間に位置した。起源は村上氏の時代にまで遡るとも言うが、宿として成立したのは元和8年(1622)真田信之が上田から松代に移封されてからである。松代藩の口留番所(くちどめばんしょ)と藩主専用の本陣(普通の宿では本陣に当たるものを「御茶屋」と称し、諸大名などが通る時は御本陣と名乗っていた)が置かれたことから始まった私設の宿であるため、泊まりは松代藩主の真田氏だけだったが、他の大名も中休(昼休)や小休等に利用していた。近接する絶壁の塩尻岩鼻に狼煙台があったことから、「寝不見(ねずみ)」が転じて鼠と呼ばれるようになったとされる。岩鼻の下を千曲川の急流が洗っていたため、街道は崖の中間にある切通しを迂回していた。この隘路を六寸街道と言い、崖伝いの険しい山道のため落石と滑落の危険があり、北国街道屈指の難所として知られた。加賀の前田候は参勤交代の際に岩鼻を通過すると、飛脚をたてて無事を国許に伝えたという。
鼠宿は六寸街道の登り口にあたる。本陣、脇本陣、問屋、馬宿のほか、一般旅客の休息する茶屋もあり、宿場はにぎわった。
鼠宿口留番所は岩鼻の険と千曲川に面するため通行の監視に適し、上田藩と松代藩の境界に当たる要所であった。そのため松代藩の番所の中でも一番重要視されており、関所に準ずるものとして人改めも行っていた。 (wikipedia・鼠宿より)]
塩尻岩鼻の断崖絶壁(流紋岩から成る岩壁で、六寸街道はこの崖の中腹までよじ登る。)