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千住一里塚跡石碑
[千住高札場跡石碑が建つ前の通りは旧区役所通りで、かって熊谷堤とよばれ北側に江川堀が流れ、その江川掘りに千住小橋が架かっていました。江川掘りは昭和6年頃暗渠(あんきょ)化されています。 (参考サイト – 「足立朝日» Blog Archive » 旧日光街道、千住小橋付近」より)]
[一里塚(いちりづか)とは、大きな道路の側に1里(約3.927キロメートル)毎に旅行者の目印として設置した塚(土盛り)である。塚の側に榎の木を植えたり標識を立てたりしていた。マイルポスト・キロポストと同様であり、一里塚は中国にも存在する。日本では、平安時代末期に、奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を立てたのが最初と言われている。室町時代の一休(或いは一休に近しい遊女・地獄太夫)が「門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」との歌を詠んでいる。一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。慶長9年2月4日(グレゴリオ暦1604年3月4日)、江戸幕府は日本橋を起点として全国の街道に一里塚を設置するよう指令を出した。一里塚の設置は、大久保長安の指揮の元に行われ、10年ほどで完了した。一里塚には榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていた。また現存する一里塚の多くは道の片側にのみ存在するが街道の両側に対で設置されるのが本来の姿である。 (wikipedia・一里塚より)]
カメラ南東方向、花壇右に千住一里塚跡石碑が設置されています。
千住一里塚跡石碑(Google Map 画像リンク)