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日本橋大伝馬町
[歌川広重『名所江戸百景』より「大伝馬町木綿店」、「大伝馬町呉服店」。
「大伝馬町木綿店」・wikipedia-photo)
「大伝馬町呉服店」(商家「大文字屋」は現在の大丸)・wikipedia-photo)
江戸時代から「もめんだな」と通称された一角には、多数の繊維問屋が戦後まで軒を並べていた。 やや東へ寄ったところには著名な呉服店があった。現在の大丸の前身である。
(wikipedia・日本橋大伝馬町より)]
[大伝馬町・小伝馬町・南伝馬町のいわゆる三伝馬町は、江戸の4「町」の筆頭 - つまり江戸の多くの町を代表する町として尊重されました。この三伝馬町は徳川家康が江戸に来るまでは、日比谷入江 – ほぼ現在の皇居外苑の場所の、皇居側の海岸にあった千代田・宝田・祝田の三つの村の後身です、この三つの村が日本橋や京橋に移されたのは、村の場所が江戸城の拡張で場内に取り込まれたためでした。三つの村は日本橋地区と京橋地区に移されて、はじめは徳川家の、慶長8年(1603)の江戸幕府成立以後は幕府の伝馬役を負担する町としての役割を与えられました。三伝馬町が江戸の町の代表として扱われた理由は、幕府が「江戸先住民」の存在を尊重すると同時に、伝馬役という陸上輸送手段の運営をまかしたことにあったといえます。
江戸の大祭、天下祭りと呼ばれた日枝山王と神田明神の祭礼行列の先頭には、必ず大伝馬町(小伝馬町含む)と南伝馬町の二台の山車が引かれました。山王祭の時には山王の神領である日本橋の一部と京橋と、神社の地元の麹町の町が参加し、明神の祭りには神田と日本橋の一部の町が参加しました。このように都心の町々は一年おきに、それぞれの神社の神領の範囲ごとに天下祭りをしたのですが、大伝馬町と南伝馬町は結局は毎年、天下祭りの先頭に立ち、その上に、今は全く忘れられてしまいましたが、毎年六月には神田明神の地主神である三天王祭=祇園会が行われました。大伝馬町(小伝馬町を含む)が五~八日、南伝馬町が七~十四日、小伝馬町に代る小船町の祭が十~十三日にそれぞれ盛大に行われました。この当時の表現での三つの祇園会、別称三天王祭りの有様は、『東都歳事記』や『江戸名所図会』などでは、天下祭り以上の賑わいだったことが、それぞれの挿絵や文章でわかります。 (「中央区立京橋図書館 – 郷土室だより – 中央区の”みち”(その3)」より)]
[大伝馬町は一・二・三丁目に分かれていた。昔の一丁目は、現在の本町二丁目と同三丁目の一部、昔の三丁目は、大伝馬町一丁目と、小伝馬町一丁目の一部となっている。昔の三丁目は二丁目の東続きの町で、昭和7年12月1日、通油町(西緑河岸の一部を含む)元浜町の北一部(西緑河岸の一部を含む)を合併して今称に改まった。
大伝馬町は、江戸時代初期には、江戸城直前の千代田村にあったが、慶長10年の城地拡張に際して、この地に移り、江戸幕府の公用伝馬をつかさどることになった。御伝馬役の馬込勘解由は、江戸草分け名主の筆頭だったことからも、江戸における大伝馬町の地位の高かったことを知ることができる。
この町は、時の移るにつれて、次第に木綿問屋が軒を並べる大商店街に変貌していった。 (「中央区立京橋図書館 – 郷土室だより – 中央区名所名物句集二」より)]
大丸呉服店
[大門通りの向こう側は大丸呉服店があった所。(現・中央区日本橋大伝馬町10) 広重の『名所江戸百景』にも描かれ、明治に入ってからも 「その当時の日本橋文化、繁昌地中心点」。大土蔵造りの有名な呉服店でした。元旦には近所の子供らにも振舞がありました。 (「長谷川時雨『旧聞日本橋』を歩く – 中央区観光協会特派員ブログ」より)]
[当時の江戸切り絵図を見ると大丸のあった場所は通旅籠町になっている。これは、以前大伝馬町三丁目であったものが通旅籠町に町名変更されたためである。しかし、町名は変わっても当時大丸といえば大伝馬町三丁目で通っていたので、広重もあえて通旅籠町とせず、「大伝馬町こふく店」としたものと思われる。
同じ名所江戸百景にはもう一枚「大てんま町木綿店」という絵がある。こちらの方は、同じ大伝馬町でも大伝馬町一丁目、田端屋、升屋、それに嶋屋を背景として、揃いの着物に赤い蹴出しをのぞかせた二人の芸者衆を前面に描いている。 (「森川和夫:廣重の風景版画の研究(1)」より)]
[幕府の役職で荷馬を取り扱う道中伝馬役の屋敷が置かれたことが由来とされる。1丁目は木綿問屋街として発展、木綿店もめんだなと呼ばれた。2丁目は各種問屋、薬屋、商店が軒を連ね賑わった。3丁目(通旅籠町とおりはたごちょうの俗称)には木綿呉服店の大丸屋があった。 (「歌川 広重 初代 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 – 国立国会図書館」-「大伝馬町 (おおでんまちょう)」より)]
大伝馬町資料リンク
「国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」[絵図中央・囚獄石出帯刀と堀留川の間に大伝馬町が描かれています。]
「東京市拾五区区分全図 第一 日本橋区全図 – 特別区協議会」(堀留川の上、堀留町の上が大伝馬町になります。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「大伝馬町 木綿店」(1-40)、「祇園会大伝馬町御旅所」(1-41)、「祇園会御旅所解説」(1-37)
大伝馬町 木綿店(拡大図)
[向かって左面の店は紺地の日除暖簾に井桁に十印の紋と長井・わたやと染め抜いている。右面には白地の長暖簾に井桁に叶印の紋と丸屋・満類屋と染め抜いている。『江戸名所図会』の1~3卷は天保五年(1834)に刊行されているから、ほとんど同じ時期である文政七年(1824)刊行の『江戸買物独案内』によれば、大傳馬町一丁目・木綿問屋・綿屋宗兵衛の店と大傳馬町一丁目・木綿問屋・丸屋藤助の店であることがわかる。 (「[1巻1冊41大伝馬町木綿店]」より)]
祇園会大伝馬町御旅所(拡大図)
「東都歳事記. 巻之1-4,附録 / 斎藤月岑 編纂 ; 長谷川雪旦 図画 ; 松斎雪堤 補画」・「大伝馬町天王御旅出の図」(3-22)
大伝馬町天王御旅出の図(拡大図)
カメラ位置は大伝馬町一丁目/二丁目付近です。
カメラ位置は日本橋大伝馬町10丁目交差点で、カメラ南南西方向一画が名所江戸百景で描かれている大伝馬町ごふく店(商家「大文字屋」は現在の大丸)跡です。
カメラ位置は神田明神境内で、カメラ西北西方向が大伝馬町八雲神社です。(※「二の宮」大伝馬町・八雲神社の祭礼は残念ながら現在は行なわれていない。 「神田神社と神田祭【大好き神田】」より)]