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[慶長11年(1606年)になって、大川図書(ずしょ)が先頭に立ち、現在の旧街道筋にあたる低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、千住-越ヶ谷間をほぼ一直線に結ぶ新往還道を築き上げた。
開宿当初、家数は84軒、宿延長は685間、伝馬人足25人、駅馬25頭と小規模であったが、徐々に人口が増え、正徳3年(1713年)、草加宿総鎮守として市神(神明宮)が建てられると五・十の六斎市が開かれるようになり、近郷商圏の中心としても繁栄した。
日光参詣などで、交通量の増加から、千住宿から越谷宿の中間に宿駅設置の願いが出された。当時、草加は新道沿いには集落がいくつか成立していたが、宿場を編成する大きな村はなかった。人馬継立てが間に合わなくなると、幕府は、複数の村が宿場を編成することを許可したことから、千住から越ヶ谷間の「間の宿」として、9か村組合宿による草加宿が誕生した。寛永7年(1630年)年には、幕府の伝馬制度の公認により日光街道で二の宿駅となった。 (wikipedia・草加宿より)]
[草加宿では大川本家が開宿から江戸中期まで本陣を務めていました。大川家は大川図書の直系である大川本家と図書の弟の系列の中大川家(なかおおかわけ)とその息子の系列の下大川家(しもおおかわか)の三つの系列がありました。大川本家は自らを本家とは名乗らずに打出大川家(うちでおおかわけ)と名乗っていました。「打出」とは縄を打って(張って)面積を測る測量の意味です。江戸時代、領地では領主が測量を行い年貢などを決めていました。大川本家が打出と名乗ったのは、草加宿で最初に江戸幕府から測量を受けた由緒正しい家柄であることを誇示するためだと思われます。
本陣を務めていた大川家ですが、宝暦4年(1754年)その職責を同じ宿篠葉村出身である清水家に譲りました。
本陣を譲った詳細な経緯は分かっていませんが、格式ある本陣を長年維持することは、経済的にも、政治的にも負担が大きかったのではないかと推測されます。 (「4月8日(日)、本陣跡石碑除幕式(ほんじんあとせきひじょまくしき)開催」より)]
カメラ西南西方向に大川本陣跡碑があります。