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[八幡神社前の街道を北に向かって約200m進むと、住吉郵便局がある。その局を過ぎた右側に、石の「道路元標」が建っている。
この位置は、かつて草加宿の問屋場(といやば=駅亭)があった所で、にぎわいの中心地であり、宿駅の中継点でもあった。道路がやや広くなっているのもそのためである。
ここはまた、明治期に街道を走った馬車鉄道の乗降駅でもあった。道路にレールを敷き、軌道の上に馬車を走らせたのが、馬車鉄道である。
草加の高橋荘右衛門を代表として、千住馬車鉄道会社が設立されたのは明治22年であった。出願から4年の歳月を経て千住茶釜橋から越谷町大沢までの、運行を開始した。
文明開化を象徴する馬車鉄道は多くの庶民に歓迎され、粕壁町まで伸延したものの、やがて事業は赤字となり、6年あまりで廃業となった。
時代は一層便利な路面電車へと移りつつあったが、草加の有力者たちはこの施設を買い取り、「草加馬車鉄道合資会社」を新たに設立し、運行業務を継続したのである。
客を運ぶ馬車は二頭立が基本である。二頭が並列して走るので馬の負担が大きく、過労死が重なり、支障が続出した。
さらに東武鉄道の開業が追い打ちをかけ、乗客の激減とともに、ついに解散となった。
日光街道の交通革命に情熱を燃やし、滅びゆく軌道に夢をのせた草加びとの心意気は、今も町の歴史の語り種(ぐさ)となっている。 (「草加市 (広報そうか06年10月5日号4・5面)道ロマン(85)草加と馬車鉄道 」より)]
[埼玉県が明治44年(1911)に県内各地に建立したもので、この元票を起点とし谷塚・千住・越谷・浦和・栗橋への距離が尺単位で示されています。(草加市観光協会 今様草加宿ガイドマップより) (「埼玉県草加市【住吉商店会】商店会の紹介」より)]
カメラ東方向に道路元標があります。