郡代屋敷跡

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[郡代屋敷跡
所在地 中央区日本橋馬喰町二丁目地域
 江戸時代に、主として関東幕府直轄領の、年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった場所です。
 関東郡代は、天正十八年(一五九〇)徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永十九年(一六四二)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(一六八八~一七〇四)には関東群代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。
 その役宅は、初め江戸城の常盤橋門内にありましたが、明暦の大火(一六五七)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷と称されました。
 寛政四年(一七九二)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東群代を兼ねることとなり、この地に移住しました。文化三年(一八〇六)に関東群代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した跡には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を長く群代屋敷と呼んでいました。
 平成二十年三月     中央区教育委員会  (「郡代屋敷跡 – Monumento(モニュメント)」より。)]

関東郡代
[関東郡代(かんとうぐんだい)とは、江戸時代に4ヶ所設置された郡代の一つ。かつては、伊奈氏によって世襲された関八州江戸幕府直轄領の民治を司る地方官であると考えられていたが、近年の研究によって、伊奈氏が実際に任命されていたのは「関東代官」であり、江戸幕府における関東郡代の職制は伊奈氏改易に対応して設置されたものであること、伊奈氏の「関東郡代」は実際には3代伊奈忠治以後の伊奈氏宗家当主が私称していたものに過ぎず、伊奈氏宗家断絶後の再建運動の過程であたかも伊奈氏断絶以前から関東郡代の職制が存在したかのように創作された可能性が高いとする見方が有力視されている。
従来、関東郡代と考えられていた関東代官伊奈氏は、関八州の幕府直轄領約30万石を管轄する。行政・裁判・年貢徴収なども取り仕切り、警察権も統括していた。また将軍が鷹狩をするための鷹場の管理も行っている。
徳川家康の関東入府の際に伊奈忠次を関東の代官頭に任じたことに始まり、その後12代200年間に渡って伊奈氏が関東代官の地位を世襲した。1692年(元禄5年)飛騨国高山藩領地が天領となった際には6代伊奈忠篤飛騨郡代も一時的に兼務した。また、享保年間には鷹場支配と公金貸付を中心とした「掛御用向」の地位に就いた。
本来、関東代官は勘定奉行の支配下にあったが、1733年(享保18年)8代伊奈忠逵の代には勘定吟味役を兼任しており、関東代官は老中の直属支配下に入ることになる。更に12代伊奈忠尊の1785年(天明5年)には奥向御用兼帯となり、その2年後には小姓組番頭格となるなど、他の郡代代官とは別格の地位を築いた。伊奈氏の「関東郡代」自称もこうした特殊な地位が背景にあったと考えられている。ところが、直後に伊奈氏の当主の地位を巡る御家騒動が発生、讒言によって1792年(寛政4年)3月に伊奈忠尊は関東代官を罷免、改易されてしまった。
1792年(寛政4年)3月、伊奈氏の改易によってその強大な権限は分割された。まず、地方支配は勘定所の管轄とされ、後任の関東代官となった大貫光豊と篠山景義は掛御用向の職務を担当したが、同月には勘定奉行・久世広民の兼任で関東郡代の職が設置された。関東郡代の下に先に関東代官に任命された2名に加えて3名が追加されて5人体制の関東郡代付代官となり郡代を補佐した。また、伊奈氏から接収した馬喰町の代官屋敷を郡代屋敷と改めて掛御用向を扱う鷹野役所(鷹場支配)と関東郡代付貸付方役所(公金貸付)を屋敷内に併設した。屋敷には関東郡代付代官が詰めて地方支配と鷹野役所・関東郡代付貸付方役所の職務を行った。その後、1797年(寛政9年)に久世が転任すると、新しく勘定奉行となった中川忠英が関東郡代を兼ねた。ところが、1806年(文化3年)に中川が転任すると関東郡代は設置されず、同年の火災で郡代屋敷が焼失したこともあってそのまま廃止された。同年、郡代屋敷の跡地に馬喰町御用屋敷が設置され、元の関東郡代付代官は定員を3名に減らした上で馬喰町御用屋敷詰代官として従来と同様の職務を行っている。
関東郡代の廃止後、関八州見廻役や関東取締出役などを設置して対応しようとしたが、幕末期の不穏な社会情勢に対応するのには不十分であった。文久の改革以後、関東支配の立て直し策の議論が行われていたが、1864年(元治元年)の天狗党の乱によって関東地方の中心部が戦場となったことが幕府に衝撃を与えた。同年11月に関東郡代が再び設置された。関東郡代の定員は4名で関八州のうち2か国ずつを管轄・支配した。原則として現地の陣屋にて職務を行うため、以前のように勘定奉行との兼務は取られなかった。また、管轄する国に関しては幕府直轄領以外の旗本領や寺社領などに対しても訴訟や治安維持に関する権限を行使することが可能であり、更に新田開発や治水灌漑、酒造制限・生糸改印などの民政・経済政策に関する権限も強かった。関東郡代の下には組頭以下の属僚が設置され、更に8名いた関東代官は全て郡代付とされた。将来は関東代官を廃止して関東郡代による関東地方の広域・直接支配を意図していたとみられているが、設置当初から定員1名を欠き、その後も人事異動や将軍上洛の御供などによって4名全員が現地で職務にあたることはなかった。そのため、1867年(慶応3年)1月になって改めて関八州を2分して関東在方掛を設置して、関東郡代であった木村勝教・河津祐邦を横滑りさせた。同年2月5日に関東郡代は正式に廃止された。  (wikipedia・関東郡代より)]

郡代屋敷資料リンク
東京都立図書館 – 武州豊嶋郡江戸庄圖(寛永9[1632]年)」[絵図中央右方向・大橋(常盤橋)右上に「伊奈備前」と記述されています。]

国立国会図書館 – [江戸図寛文六年刊](出版年月日・寛文6 [1666]年)」[絵図四つ切右下に「伊奈半左門」(伊奈忠克)と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図右上に郡代屋敷が記述されている。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 2号」(コマ番号2/6・絵図中央右方向、神田川左に御用屋敷と描かれています。)

郡代屋敷跡 – Google Map 画像リンク

カメラ北北西方向、交番右・公園植え込みの中に郡代屋敷跡説明板が設置されています。

郡代屋敷跡説明板(Google Map 画像)

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