駒形堂

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駒形堂
[浅草寺の南方、隅田川に架かる駒形橋西詰の飛地境内にある小堂。本尊馬頭観音立像(秘仏)。浅草寺本尊聖観音像の「示現の地」とされ、かつて船で来訪する参詣者はここで下船し、駒形堂に参詣してから観音堂へ向かったという。現在の堂は鉄筋コンクリート造、方三間、宝形造で、平成15年(2003年)に建て替えたものである。堂は元来は隅田川に向いて建てられていたが、現在の堂は江戸通り側を正面とし、川には背を向けた形になっている。本尊は毎月19日の縁日に開扉され法要が行われる。
駒形堂・wikipedia-photo

ウィキメディアコモンズには、浅草寺 駒形堂の画像またはその他のファイルが含まれています。  (「wikipedia・浅草寺より)]

[駒形堂は、浅草寺ご本尊の聖観世院菩薩さまが、およそ千四百年前、隅田川よりご示現(じげん)なされ、はじめて奉安された地に建つお堂。昔、この辺りは船着き場で、渡しや船宿もあり大変な賑わいをみせ、船で浅草寺参詣に訪れた人々は、まずこの地に上陸して駒形堂をお参りして、観音堂へと向った。このお堂のご本尊さまは馬頭観音さまで、今も昔も、この地を行き交う人々をお守り下さっている。
 現在のお堂は平成十五年に再建されたもの。今もこの地はご本尊ご示現の聖地として、人々の篤い信仰に支えられ、毎月の十九日の馬頭観音さまのご縁日には、多くの参詣者で賑わう。馬頭観音さまのご真言・・・「おん あみりとどはばうんはった」  金龍山 浅草寺
浅草観音戒殺碑
総高183.5センチ。元禄5年(1692)浅草寺本尊が垂迹(すいじゃく)した霊地として、駒形堂の地を中心に南は諏訪町より、北は聖天岸にいたる10町余の川筋を魚介殺生禁断の地にした。このことを記念し、元禄6年3月浅草寺第四世宣存が願主となり建立したものである。駒形堂はしばしば焼失しており、戒殺碑はいずれかの火災に際して倒壊しており、宝暦9年(1759)堂宇再建に伴い再び建てられたといわれる。現在の碑が当初のものであるか、再建したものであるかは詳かではないが、昭和2年(1927)5月に土中から発見、同8年修補再建されたものである。 昭和46年10月1日 建設 東京都教育委員会  (「旧日光街道1回目(江戸・千住宿)」より)]

駒形堂資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図」(1849 – 1862)[絵図四つ切右下・「駒形町」の間に「駒形堂寺」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 拾五之二」(絵図四つ切左上に「駒形堂寺」が描かれています。)

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「浅草寺観音大士出現」(16-21)、「草刈り童子によって藜で屋根を葺いた堂」(16-22)、「駒形堂 清水稲荷」(16-25)、「駒形堂 清水稲荷解説」(16-26)、「弘法大師東国遊化」(16-27)
浅草寺観音大士出現(拡大図)

[本堂の創建は、ご本尊が示現された推古天皇36年(628)にさかのぼる。檜前浜成・竹成の兄弟が隅田川(宮戸川)で観世音菩薩のご尊像を感得したのち、10人の草刈り童子によって藜で屋根を葺いた堂に一時安置された。その後、土師中知が私邸を寺として、この聖観世音菩薩のお像を奉安したのが、本堂の起源である。  (「本堂|聖観音宗 あさくさかんのん 浅草寺 公式サイト」より)]

草刈り童子によって藜で屋根を葺いた堂(拡大図)

駒形堂 清水稲荷(拡大図)

[在の駒形橋の西側にある堂。浅草寺の本尊が隅田川から見つかった場所に建立されたとも、かつてはここに浅草寺の総門があったとも言われている。馬頭観音を祀る。現在は少し北に位置している。  (「歌川 広重 初代 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 – 国立国会図書館」-「駒形堂」より)]

弘法大師東国遊化(拡大図)

[弘法大師東国遊化のみぎり、武蔵の国に至り、ひとつの小坂にかかり給ふ時に、一老女の遠く水を運ぶあり。大師深く是をあはれみ給ひ、ただちに其地を加持し給へば、忽然として清泉湧出せるよし、江戸名所記に出たり。いま東叡山寒松院の境内西の梺(ふもと)にあるところの清水を云ならんか。  (「[第6巻第16冊27弘法大師東国遊化] – 江戸名所図グループ」より)]
[[清水稲荷社]に関しては、『江戸名所図会』本文の「清水稲荷社」の項に、「駒形町にあり。往古嘉承年中(1106~07)《空海・弘法大師は宝亀五年(774)~承和二年(835)の平安時代初期の僧であるから嘉祥年中(848~50)の書き間違いだろう。嘉祥年中でも空海の没後であるので正しくはない。》弘法大師東国遊化のみぎり、この国へ入り給ひし頃、霊告によって如意宝珠を神体とし、稲荷に勧請したまふとぞ。(その地より清泉湧き出づるる故に清水の名あり。その後谷中感応寺の持となり、法華の勧請となりしが、かの寺改宗の後、東叡山末となり、別当を妙行院とふ。旧地は東叡山の西のかたにありて、寒松院構のうちとなる。今清水門と号(なづ)くるもその旧号をうしなはざるの証なり。元禄の頃、三島明神と共にこの地にうつされたり。・・・」とある。
現在駒形町には何の跡も見いだせないが、江戸時代、現在の駒形一丁目の江戸通り西側に、清水稲荷屋敷と呼ばれる屋敷があった。稲荷屋敷というのは敷地内に稲荷社を祀っていたことによる。この屋敷の住人田中松春の先祖田中四郎兵衛は、もとは上野山西の清水町に天海より屋敷を拝領して住んでいたが、元禄二年(1689)にそこを召し上げられたので谷中に屋敷を拝領したがこれも召し上げとなり、宝永七年(1710)に田中松春が当所を拝領し、清水町の頃から屋敷内でまつっていた稲荷社とともに引き移った。清水稲荷と呼ばれた弘法大師ゆかりの稲荷社であった。  (「[第6巻第16冊25駒形堂・清水稲荷]」より)」

名所江戸百景[歌川(安藤)広重](駒形堂吾嬬橋・wikipedia-photo)

駒形堂 – Google Map 画像リンク」、「浅草観音戒殺 – Google Map 画像リンク

カメラ東南東方向が駒形堂で、境内左隅に浅草観音戒殺碑がある。

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