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手子(てこ)神社
[手子神社は、釜利谷の領主伊丹左京亮が、文明5年(1473)瀬戸神社の御分霊を宮ヶ谷の地に勧請して創祀したといいます。江戸期には釜利谷郷の鎮守社として祀られ、明治6年村社に列格、大正2年神饌幣帛料供進神社に指定されたといいます。
■新編武蔵風土記稿による手子神社の由緒
(赤井村)
手子明神社
除地、二畝、南の方宿村と入會し所にあり、本社西向、拝殿三間に六間、社前に石階を設け石の鳥居をたつ、其前に宮川の流あり、是に長五間の橋を架す、本地佛は薬師にて立像長一尺許なるを安ず、釜利谷三村の鎮守にして、例祭六月十一月共に初酉の日なり、村内満蔵院持。
末社
稲荷社。本社の左の後にあり、小社。
庚申社。同じ邊にて小社なり、又社後の山上に小社あり、祭神詳ならず、土人は此社を上の山とのみ稱せり。(新編武蔵風土記稿より)
■神奈川県神社誌による手子神社の由緒
文明五年(一四七三)、領主伊丹左京亮が瀬戸三島明神を勧請、後に孫裔伊丹三河守昌家が修造を加えた。延宝七年四月十日伊丹氏の裔、浅草寺智楽院忠蓮権僧正が再興して以来、釜利谷郷総鎮守として信仰をあつめた。明治六年村社に列格、大正二年神饌幣帛料供進神社に指定された。関東大震災後大正十五年現社殿完成、御屋根は昭和四十五年の萱葺である。
境内社「竹生島弁才天」は、古くより金沢八景の一つ「小泉夜雨」の勝景の中心にあり、享保八年四月江戸深川の木島又右衛門政尚が夢告によって本尊を安置、祭祀を復興したものであるが、昭和十五年該地が海軍航空支蔽用地として収容せられた際、本社境内に遷祀された。銘都市四月初巳の日を例祭日とする。(神奈川県神社誌より) (「手子神社|横浜市金沢区釜利谷南の神社 – 猫の足あと」より)]
[境内社 竹生嶋弁財天社
古く「小泉夜雨」の起原となった小泉の瀟湘(しょうしょう)の松の下の祠であったが、享保八年(一七二二)江戸の木島又右衛門政尚といふ人が玄峰和尚と共に、同所に石窟を構築し遷宮。以後、厄除、小授けの御利益があると信仰された。昭和十五年、時局により現在地に遷座した。 (「竹生島弁財天 – Google Map 画像」より)]
(「金沢八景をめぐる景観環境史」より)]
[地図中央に瀬戸橋が描かれ、そこの上方向水面が瀬戸の内海で、永島家によって約200年に渡って埋め立てられた走川・平潟・入江新田の3つは、永島祐伯の号泥亀から採って泥亀新田と名付けられ、一村となります。瀬戸の内海中央左の鳥居が手子神社で、そこの下に「小泉夜雨」と記述され、右上に「内川暮雪」「塩場」と記述されています。]
歌川広重「小泉夜雨(こずみのやう)」(拡大図・「commons.wikimedia.org」より)
歌川広重「内川暮雪(うちかわのぼせつ)」(拡大図・「commons.wikimedia.org」より)
[絵図中央に瀬戸の内海、下岸辺に塩焼き小屋が描かれています。]
手子神社参道前のカメラで、「小泉夜雨」が描かれたとされる場所は、境内地東側のようです。