日光例幣使道分間延絵図

日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)は、江戸時代脇街道の一つで、徳川家康の没後、東照宮幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。
倉賀野宿を起点とし、中山道と分岐、柴宿太田宿栃木宿を経て、楡木(にれぎ)宿で壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る。楡木より今市(栃木県日光市)までは壬生通り(日光西街道)と重複区間である。
柴宿から北に大胡道が通じ、駒形、大胡を経て、銅山街道の深沢までを結んでいる。境宿・木崎宿間で銅山街道と交差し、太田宿で南に古戸道、北に桐生道が通じている。天明宿から南に館林道が通じ、館林を経て、中山道の鴻巣宿までを結んでいる。
現在、栃木県日光市から鹿沼市栃木市佐野市足利市群馬県太田市伊勢崎市高崎市に至る路線が「日光例幣使街道」または「例幣使街道」と呼ばれている。特に日光市から鹿沼市にかけての区間には日光杉並木が現存する。
例幣使
例幣使とは、天皇の代理として、朝廷から神への毎年のささげものを指す例幣を納めに派遣された勅使のことである。例幣使は、中山道と例幣使街道を経て日光に向かい、4月15日に日光に到着したのち、翌朝に東照宮にささげものを納め、そのあとは江戸にまわって将軍に対面してから京都へ帰ることに決まっていた。その例幣使が日光へ詣でるために通ったことから、つけられた呼び名である。  (wikipedia・日光例幣使街道より)

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