現在の玉村町五料は、江戸時代、沼之上(ぬまのうえ)とよばれていました。この村は天正年間(1573~92)には倉賀野との間に伝馬の制度がしかれていたといわれています。この村の東北部の一画が「五料」とよばれていました。
五料の名の由来は、角渕にあった西光寺(現玉村町下新田)の稚児千代寿丸が柴渡船転覆により溺死した、その「御霊」の供養に基づくとされます。また、尾州藩士堀杏庵が寛永13年(1636)に旅したときの日記「中山日録」には、五料という地名は新田義貞の子義興の「御霊」に由来しているという伝承が記されていますが、これは千代寿丸が新田庄出身であることと義興を取り上げた芝居などの影響で、千代寿丸の話が義興の話にすりかえられて伝承流布したのではないかとされる説もあります。
五料宿は玉村宿から東へ1里半(約6km)に位置していました。利根川と烏川の合流点に近く、五料・新・川井の三つの河岸があります。
五料宿の問屋場は例幣使道の南側で、関所入口の東南に位置していました。問屋役人は始め問屋役2人、年寄1人の3人制でしたが、その後上組、下組の名主2人ずつによる年番制となり、さらに4家による交替制となりました。 (「玉村町ホームページ-近世 | 玉村町」より)]
絵地図初期設定画面に「上茂木村(佐波郡玉村町上茂木)」、絵地図を右にスクロールすると「飯島村(佐波郡玉村町上飯島)」と記述されています。
絵地図初期設定画面に「川井村(佐波郡玉村町川井)」と記述されています。
絵地図初期設定画面中央に利根川が描かれ、利根川右に五料関所が描かれ、右端に「五料宿(佐波郡玉村町五料)」、絵地図を右にスクロールすると「飯倉村(佐波郡玉村町飯倉)」と記述されています。