日光例幣使道分間延絵図(天明宿)

平安時代天慶2年(939)、藤原秀郷が連れてきた鋳物師(いもじ)によって鋳物産業が発展。室町時代以降は茶の湯の流行などでその名を京都にまで知られた天明であった。 慶長7年(1602)に佐野藩初代藩主となった佐野信吉によって整えられた町並みは例幣使街道の開通により宿場町としても発展。例幣使一行は天明宿泊まりを習わしとしていた。  (「東武「福居」駅~JR「岩舟」駅。その4。(「日光例幣使街道」)」より)

絵地図初期設定画面に「多田木村(足利市多田木町)」と記述されています。
1876年(明治9年)-下多田村・上多田村が合併して多田村となる。

絵地図初期設定画面に「寺岡村(足利市寺岡町)」、絵地図を右にスクロールすると「村上村(佐野市村上町)」、「多田木村」と記述され、上に描かれる河川は旗川になります。

絵地図初期設定画面に「萱木村(佐野市大橋町)」、左の河川は才川になります。絵地図を右にスクロールすると「免鳥村(佐野市免鳥町)」、「寺岡村」と記述され、その間の河川は旗川になります。

絵地図初期設定画面に「天明宿」と記述され、秋山川が描かれ、その右の小河川は菊沢川、絵地図を右にスクロールすると才川が描かれています。

絵地図初期設定画面に「小屋町(佐野市久保町)」、絵地図を右にスクロールすると「天明宿」と記述されています。「小屋町」と「天明宿」の間の上方向の道筋は千人同心街道(舘林道)で、その交点街道内に高札場が描かれています。
久保町は、その昔、「小屋町」といわれ、明治9年に天明宿と一つになる際に再編され、称するようになりました。朝日森と星宮の祭礼の年番町の順番が1番だったことから、現在も佐野市の町名で1番目になっています。 (「久保町 – 佐野市」より)

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