日光例幣使道分間延絵図(栃木宿)

栃木宿(とちぎじゅく)は、日光例幣使街道倉賀野から13番目の宿場である。栃木河岸(とちぎかし)があり、巴波川(うずまがわ)の舟運の拠点として栄えた。現在の栃木県栃木市の市街地付近にあった。
正保4年(1647年)に日光例幣使の派遣が始まると、栃木町は栃木宿として街道の宿場町に定められ、人の往来がさらに盛んになった。また、脇街道によって宇都宮につながったり、会津方面へ通じたりする要所にもなった。
幕末は多難であった。弘化3年(1846年)、嘉永2年(1849年)、文久2年(1862年)の3度にわたり大火に見舞われ、元治元年(1864年)6月6日には水戸天狗党の田中愿蔵による焼き討ちで町の南半分を焼失した。これらに加えて物価の上昇もあり、民衆は苦しい生活をしいられた。
慶応3年(1867年)12月、竹内啓(小川節斎)を首領とする一団が出流山満願寺で挙兵した際、そのうちの数名が軍資金の要求に来て、脇本陣に滞在した。愿蔵火事の二の舞が危ぶまれたが、陣屋を預かっていた善野司関東取締出役渋谷鷲郎らの対応によって騒動は鎮圧された(出流山事件)。
舟運
巴波川の流域にある栃木河岸は、徳川家康の遺骸を日光へ移した際、江戸からの荷物を舟で運んだのが始まりという。栃木から本澤河岸を経て部屋河岸及びその対岸の新波河岸までは都賀舟、それより下流は高瀬舟を使った。明治時代になると、鉄道の開通により舟運は下火になった。  (wikipedia・栃木宿より)

絵地図初期設定画面に「片柳村(栃木市片柳町)」、絵地図を右にスクロールすると「川連村(栃木市大平町川連)」と記述されています。

絵地図初期設定画面に「平柳新地(栃木市平柳町)」、「栃木宿」と記述され、「栃木宿」記述左下、街道十字路(現在の倭町交差点)中央に高札場が描かれています。栃木宿集落下の河川は巴波川です。絵地図を右にスクロールすると巴波川に板橋(現在の開明橋)が架けられ、「沼和田村(栃木市沼和田町)」、「片柳村」と記述されています。

絵地図初期設定画面に「大杦新田」、「箱森新田(栃木市箱森町)」、絵地図を右にスクロールすると「嘉右衛門新田(栃木市嘉右衛門町)」、「平柳新地」と記述されています。
1889年(明治22年)4月1日 – 町村制の施行により、栃木町 ← 栃木町、片柳村、薗部村、箱森村、大杉新田、小平柳村、嘉右衛門町、栃木城内村、沼和田村、風野村、平井村および平柳村の一部(現栃木市)

日光例幣使道分間延絵図(富田宿)    日光例幣使道分間延絵図(合戦場宿)