玉村宿は、日光例幣使街道第一番目の宿場であり、上新田村と下新田村から成り立っています。宿の全長は約2,610m、道幅は約5mで、4丁目から7丁目にかけて50軒ほどの旅籠屋がたち並び、6丁目に本陣、4丁目と7丁目に問屋場がおかれていました。
玉村宿は、東西に中山道の倉賀野宿から分岐し、壬生(みぶ)道の楡木(にれぎ)に至る日光例幣使道が通り、南北には中山道の本庄宿から玉村、渋川を経て三国街道に出る佐渡奉行街道といわれた三国街道の別路が通る交通の要衝であり、また飯売旅籠屋も数多くたち並び宿場として繁栄しました。しかし、慶応4年(1868)1月11日の大火により、4丁目から9丁目までのほとんどが焼け、本陣もこのとき焼失してしまいました。
例幣使の一行は、毎年4月11日の夕方玉村宿に到着し、翌日早朝には、つぎの宿泊地である天明(てんみょう)宿(栃木県佐野市)を目指して出発しました。
例幣使の通行は、宿場にとっては、入魂料(じっこんりょう)といわれる心付けを強要されるなど宿場を疲弊させる一因にもなりましたが、一方で、人や物資がさかんに行き交い、都の文化が流入し宿場が賑わうといった好影響ももたらしました。
玉村宿には問屋場が2ヶ所あり、問屋役(問屋場の責任者)は上新田4丁目と下新田5、6、7丁目からそれぞれ2人1組で年番と添番を持ち回りしていました。玉村宿からの継立(つぎたて)(輸送範囲)は、東は五料宿、東南は本庄宿、北は惣社村、西は倉賀野宿と決められていました。玉村宿は「御定人馬(おさだめじんば)」として25人の人足と25疋(ひき)の馬を常備しておくように定められていましたが、実際は「御囲人馬(おかこいじんば)」として5人の人足と5疋の馬のみが常備されていました。しかし、大通行のときなどその人馬だけでは足りないので、近隣の村々から人馬を差し出させていました。これを助郷といい、その村々はあらかじめ割り当てられていました。
玉村宿には、日光例幣使など貴人が宿泊する本陣(6丁目木島家)、大通行のときに置かれた臨時の本陣(4丁目井田家ほか)、旅人の給仕をする飯売下女のいる旅籠屋、飯売下女のいない平旅籠屋などがありました。安政2年(1855)には飯売旅籠屋は33軒、平旅籠屋は6軒ありました。 (「玉村町ホームページ-近世 | 玉村町」より)]
「群馬県佐波郡玉村町 (10464) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット」
絵地図初期設定画面に「倉賀野宿」と記述され、絵地図左に中山道・日光例幣使道追分が描かれています。
絵地図初期設定画面に「臺新田(高崎市台新田町)」と記述され、絵地図を右にスクロールすると中山道・日光例幣使道追分が描かれています。
絵地図初期設定画面に「八幡原村(高崎市八幡原町)」と記述され、絵地図中央に井野川鎌倉橋が描かれ、そこの左に一里塚が描かれています。絵地図を右にスクロールすると「綿貫村(高崎市綿貫町)」、「臺新田」と記述されています。
絵地図初期設定画面に描かれる家並は「玉村宿」で、絵地図を右にスクロールすると「滝新田村(佐波郡玉村町上新田)」、「下斎田村(高崎市下斎田町)」、「八幡原村」と記述されています。「滝新田村」記述の上の水路は滝川になります。
江戸に幕府が開かれた頃(慶長8・1603)、玉村一帯は100年も続いた戦乱によって荒廃し、中央部には荒涼とした原野が広がっていました。幕府の代官伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)は、家臣の江原源左衛門や和田与六郎の協力を得て、荒野に用水を引き新田を開発すると、農民を移住させて集落をつくりました。
「代官堀」(滝川用水)と呼ばれるこの用水の完成によって、玉村の中央部に「新田」という新しい「村」が誕生しました。 (「玉村町ホームページ-近世 | 玉村町」より)]
絵地図初期設定画面に「玉村宿」と記述され、「玉村宿」記述下、左に七丁目問屋場、右に高札場、そこの右方向に木島家本陣門が描かれています。絵地図を右にスクロール中程過ぎ街道下方向に玉村八幡宮が描かれています。玉村八幡宮右側が上新田4丁目で、参道右に問屋場があり、その右に板橋(現在は暗渠)が描かれています。宿場上方向に描かれる水路は滝川になります。
江戸時代の初めに誕生した新田村は、その後玉村八幡宮を境にして「上新田村(佐波郡玉村町上新田)」・「下新田村(佐波郡玉村町下新田)」の二つの村になりました。 (「玉村町ホームページ-近世 | 玉村町」より)]