日光御成道分間延絵図

日光御成道(にっこうおなりみち)とは、江戸時代五街道と同様整備された脇往還の一つである。中山道の本郷追分を起点として北上し、岩淵宿、川口宿、鳩ヶ谷宿から岩槻宿を経て、幸手宿手前の上高野で日光街道に合流する脇街道である。 日光御成道が「幕府管掌の公道として正式に組込まれた時期は不明」。「天和2年(1682年)に御成道の宿場に組入れられたことから、岩槻宿も天和2年頃には御成道筋の宿場に指定された」と考えられている。 将軍が日光社参の際に使用された街道であり、日光御成街道(にっこうおなりかいどう)とも呼ばれている。
日光御成道は、江戸時代将軍の日光社参専用道路であった。 元和3年(1617年)4月、「徳川家康の遺骸が駿河静岡県)の久能山東照宮から日光東照宮に移された時、2代将軍秀忠が同年4月12日江戸を出発して日光に向かった時が御成道の最初の通行」という。
寛永期(1624-1644年)以降、日光社参にこの道を利用するのが慣例となり将軍御成りの道ということで「日光御成道」と称され、道中奉行の支配下にあった。
日光御成道は日本橋から中山道(現・国道17号)を進み、日本橋から一里目の本郷追分(現在の東大農学部正門前の交差点で、ここ付近に本郷追分停留所がある。「駒込追分」とも呼ばれる)を起点に(中山道が左折、日光御成道が直進)、岩淵宿、川口宿(岩淵宿と川口宿は合宿)、鳩ヶ谷宿、大門宿、岩槻宿を過ぎて、幸手宿手前で日光街道(日光道中)に合流する。  (wikipedia・日光御成街道より)

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