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上尾宿天神橋の立場
[『木曾街道 上尾宿 加茂之社』(wikipedia-photo)
天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉 画
[描かれたのは、実りの季節を迎えた神域と農民の働きぶり、そして旅路である。上尾宿と江戸方に一つ手前の宿場である大宮宿との間に位置する加茂神社と加茂宮村が舞台に選ばれた。秋祭りが近いであろう社には何本もの加茂大明神の奉納幟がはためいている。その中の一部に絵の版元「いせり(伊勢利)」の宣伝が見えるのは、絵師一流の洒落っ気である。社の前では男2人女2人の農民が唐箕を使って籾(もみ)の精選に励んでいる。その奥には立場茶屋(#天神橋の立場)があり、今しがた茶屋を発った侍と供の2人連れ、一服しようと立ち寄る商人1人が見える。もっとも、実際の立場は、近くはあっても神社と隣接していたわけではなかった。また、街道筋の境内前に出張って唐箕を使うなど、ずいぶんおかしな光景には違いない。つまり、絵師は3つの画題を一画面に詰め込んだのであり、絵画的工夫の結果としてこの図がある。 (wikipedia・上尾宿#天神橋の立場より)]
桶川宿北の木戸跡・氷川天満神社(加納天神)
[『岐阻街道 桶川宿 曠原之景』(wikipedia-photo)
天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉 画
簡素な家の庭先で麦の穂をこぐ農婦に、旅人が氷川天満神社(加納天神)への道を尋ねている。桶川宿の北に広がる湿潤な昿原(こうげん)に暮らす庶民を描いた一図である。 (wikipedia・桶川宿より)]
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」- 「箕田村八幡宮 渡邊綱舊跡・巻之5 – 56」
[氷川八幡神社は、鴻巣市箕田にある神社です。氷川八幡神社は、箕田八幡神社と通称し、渡辺綱(源綱)が、永延2年(988)当地に八幡宮を勧請して創建したといいます。氷川八幡神社の北側には渡辺綱の祖父箕田武蔵守源仕以来の館があったといい、また鴻巣市八幡田は、氷川八幡神社の神田だったといいます。また境内には、宝暦9年(1759)建立の箕田碑が残されています。 (「氷川八幡神社。鴻巣市箕田の神社 – 猫の足あと」より)]
前砂村碑(英泉「吹上富士」)
[『岐岨街道 鴻巣 吹上冨士遠望』(wikipedia-photo)
天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉 画
人家が途絶えた寂しい道は鴻巣宿近辺ではなく、さらに先、間の宿がある吹上辺りの風景である。旅路の目印となる榎が疎らに植えられた昿原(こうげん)の縄手を旅の商人や虚無僧が往き交い、背景では雪を頂く富士の山が雄大な姿を現している。 (wikipedia・鴻巣宿より)]
久下権八地蔵
[『岐阻道中 熊谷宿 八丁堤ノ景』(wikipedia-photo)
渓斎英泉作「熊谷宿八丁堤景」。
左手にみかりや、右手に権八地蔵が見えることから宿の中心部ではなく久下付近を描いたものと推定される。 (wikipedia・熊谷宿より)]
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」- 「熊谷直實古跡 熊谷寺・巻之5 – 55」
[熊谷 直実(くまがい なおざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。武蔵国熊谷郷(現・埼玉県熊谷市)を本拠地とした。熊谷直貞の次男。
熊谷氏は桓武平氏・平貞盛の孫・維時(これとき)の6代の孫を称するが、武蔵七党の私市党、丹波党の分かれともされ、明らかではない。直実の祖父・平盛方(もりかた)が勅勘をうけたのち、父直貞の時代から大里郡熊谷郷の領主となり、熊谷を名乗った。
平家に仕えていたが、石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し御家人となる。のちに出家して法然の門徒となり蓮生(れんしょう / れんせい)と号した。
『平家物語』「敦盛最期」の段における平敦盛との一騎討ちは、直実は敦盛とともにこの故事の主人公として、能の演目『敦盛』、幸若舞の演曲『敦盛』といった作品に取り上げられている。 (wikipedia・熊谷直実より)]
深谷宿みかえりの松
『岐阻街道 深谷之駅』、渓斎英泉 画。(wikipedia-photo)
飯盛女が描かれている。
深谷宿(ふかやじゅく、ふかやしゅく)とは、中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて9番目の宿場。
現在の埼玉県深谷市にあたる。深谷宿は中山道で最大規模の宿場で、本陣1(飯島家)、脇本陣4、旅籠80余。商人が多く、また飯盛女も多く、遊郭もあり、江戸を出立して2番目の宿を求める人で大いに栄えた。 五の日、十の日に市が立った。(壬戌紀行)
みかえりの松(枯れてしまい現在は二代目) (wikipedia・深谷宿より)]
カメラ東方向が深谷宿みかえりの松です。
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」- 「岡部忠澄古跡 普済寺・巻之5 – 52」
[岡部 忠澄(おかべ ただずみ)は、保元の乱、平治の乱では源義朝の家人として、熊谷直実、斎藤実盛、猪俣範綱とともに従軍して活躍した。源義朝の死後は故郷の岡部に戻っていたが、治承4年(1180年)に義朝の遺児源頼朝が挙兵すると、それに従うこととなった。木曾義仲追討戦の後、源義経の指揮下に入り、寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦いでは平忠度と組み討ち、討たれそうになるも郎党が助太刀して忠度の右腕を斬りおとしたことで形勢が逆転、観念した忠度は念仏を唱え、忠澄に斬られた。その後、忠澄は箙に結び付けられた文から自分が斬った男が忠度であることを悟り、惜しい人物を斬ってしまったと悔やんだという。この話は『平家物語』を典拠とする話である。
平家滅亡後は源頼朝に従い、その御家人として奥州合戦や頼朝の上洛にも付き従った。建久8年(1197年)没。墓所は深谷市普済寺隣りの公園にある。夫人や他の岡部一族と共に埋葬されている。ただしこの墓は藤原助重のものだという見解もある。この墓地には石塔が六基あり、右から二番目のものが忠澄の墓とされている。 (wikipedia・岡部忠澄より)]
神流川橋
[『支蘓路ノ驛 本庄宿 神流川渡場』(wikipedia-photo)
天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉 画
宿より5.5キロ離れた神流川渡し場を題材としている。背景の山は上毛三山であり、右から赤城・榛名・妙義山である。土橋は初代戸谷半兵衛こと光盛が架けさせたものであり、長さ30間(約55メートル)、幅2間(約3.6メートル)。出水で橋が流された場合に備え、別に長さ5間5尺(10.6メートル)、幅7尺の渡し船も用意された。光盛は無賃渡しとする為に金100両を上納した。また、右手前(および向こう岸)の常夜燈は3代目戸谷半兵衛こと光寿が寄進したものである(在地豪商である戸谷半兵衛家の経済力と影響力がうかがえる浮世絵となっている)。 (wikipedia・本庄宿より)]
本庄宿(傍示堂集落センター~大正院)(「中山道最大の宿『本庄宿』の再発見」より)
本庄宿(大正院~(有)戸谷八商店)