木曽海道六十九次(和田峠-馬籠峠)

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    下諏訪宿旅籠桔梗屋
    『木曾街道六拾九次 下諏訪宿』(歌川広重画)(wikipedia-photo)

    [諏訪大社・下社門前町と温泉の宿場町として栄え、街道随一の賑わいをみせた信州・下諏訪温泉。中山道甲州街道の分岐点に位置する桔梗屋は、江戸時代元禄三年、本陣前の旅籠として開業したのが始まりで、それ以降三百年の歴史と伝統を誇っております。  (「桔梗屋・下諏訪温泉の旅館」より)]
    木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」- 「巻之5 – 20

    [右ページ下に「桔梗屋」が描かれ、その上に外湯(綿の湯)も描かれ路上で身体を拭いている人が描かれている?]

    塩尻峠頂上・中山道碑
    『木曾街道六拾九次 塩尻』(渓斎英泉画)(wikipedia-photo)

    塩嶺御野立公園 展望台からのカメラ。(Google Map 画像)

    邂逅の清水(あふたのしみず)
    『木曽街道六十九次・洗馬』(歌川広重)(wikipedia-photo)

    [浮世絵師・安藤広重の木曽街道「中山道六十九次」の中で、唯一無二の佳作といわれる「洗馬」を描いた絵図は、洗馬宿にある「邂逅の清水」(あふたのしみず)から奈良井川を見た景色を元に描かれたといわれます。  (「洗馬宿 北国西脇往還(北国西街道・善光寺街道)街道・宿場」より)]

    [洗馬地区、奈良井川の河岸段丘の上部にあって、ケヤキの古木のわきから湧き出す泉である。邂逅(かいごう―会ふた―オオタ)の清水として、木曽義仲にまつわる伝説とともにこの地域の人々の生活用水ともなっていた。
    【伝説】木曽義仲は、幼くして父を失い、信濃権守中原兼遠に木曽の地で、その子兼平とともに養育された。その後、兼平は今井を治めていたが、義仲の旗挙げを知ってただちに馳せ参じ、この清水で邂逅した。義仲の馬は強行軍にたいそう疲れていたが、兼平が馬の脚をこの泉の水で洗ってやると、たちまち元気を取り戻した。  (「中山道(2)/長野県塩尻市公式ホームページ」より)]

    『木曾街道六拾九次 本山』(歌川広重画)(wikipedia-photo)

    [当作品が想定する場所は判ったとしても、傾いた大木が画面右上から左下に横切る構図には如何なる意味があるのでしょうか。中山道と旧中山道との間にあった大木は切り倒されています。そして、2人の人夫が倒れかけた大木に突支棒をし終え、煙管を吹かしながら焚火に当たっています。たぶん、籠を背負い赤い半纏を着た子供とその背後の風呂敷包を背負った旅人は、この大木の下を潜り抜けることになるでしょう。境橋を越えると、「これより木曽路」となることに気付けば、この斜めの大木は、木曽路への出入りの門であることが判ります。その意味でも、当作品の想定場所は、境橋を渡って木曽路に入る、桜沢でなければならないわけです。  (「33 信濃国 「本山」 – 浮世絵に聞く!」より)]

    贄川宿本陣跡
    『木曾街道六拾九次 贄川』(歌川広重画)(wikipedia-photo)

    [この絵は贄川宿旅籠屋における夕暮の繁忙時の情景を示している。旅籠屋の入口から奥へと通ずる土間の左側が部屋、右側が台所となっている。台所には竃や、お膳と食器を乗せた棚が見えている。今到着したばかりの武家2人が入口で草鞋の紐を解き盥の水で足を洗っている。宿の主人は台所に坐って武士達を丁重に出迎えている。手際良く下女が盆に乗せたお茶を武家達にすすめている。手前から2番目の部屋から2階へ上がる階段があり、夕食を運ぶ下女が上がって行く。2階の風呂を済ませた客2人は、夕食が来るまで手持ち無沙汰である。奥の3番目の部屋では客の両掛荷物を何処へ置こうかと下女が思案中である。一番手前の部屋の左隅には赤い布で覆った竹馬(衣類を入れた)が置いてある。柱と鴨居に掛かった看板と講札には、このシリーズの刊行にかかわった版元、彫師、摺師の名前が羅列してある。例外の仙女香は白粉で販売元坂本氏から宣伝費をとり刊行費の足しにしたのだろう。お役御免となった駕籠舁は、宿駕籠を前にして縁側で一服吸っている。馬子が客の荷物を下ろしている馬の尻掛に三十四とあるのはこの宿が日本橋から数えて三十四番目に当ることを示している。右の帳簿を持った宿役人は宿帳を調べて歩いているのだろう。  (「古楽夢【参拾四】中山道・江戸の骨董品情報」より)]
    木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」- 「大熊の皮店・巻之5 – 20

    鍵の手水場・元櫛問屋中村邸(博物館)
    『木曾街道六拾九次 奈良井』(渓斎英泉画)(wikipedia-photo)

    [木曽路十一宿の江戸側から2番目で、11宿の中では最も標高が高い。難所の鳥居峠を控え、多くの旅人で栄えた宿場町は「奈良井千軒」といわれた。江戸寄りから下町、中町、上町に分かれ、中町と上町の間に鍵の手がある。水場は、山側に6ヶ所ある。江戸時代から曲げ物、櫛(お六櫛)、漆器などの木工業が盛んで、旅の土産物として人気があった。  (wikipedia・奈良井宿より)]

    [お六櫛の始まりについては、次のような伝説がある。
    持病の頭痛に悩んでいた村娘お六が、治癒を祈って御嶽山に願いをかけたところ、ミネバリで櫛を作り、髪をとかしなさいというお告げを受けた。お告げのとおりに櫛を作り髪を梳いたところ、これが治った。ミネバリの櫛の名は広まり、享保の頃になると、中山道藪原宿の名物として作られるようになった。  (wikipedia・お六櫛より)]

    [妻籠宿のお六という老婆が藪原宿で始めた「お六櫛屋」は物のよい櫛を売る店として評判だった。お六櫛は薮原で生産し続けられており、長野県知事指定の伝統工芸品になっている。  (wikipedia・藪原宿より)]

    鳥居峠
    [713年(和銅6年)、美濃国信濃国の境で東山道神坂峠岐阜県中津川市長野県阿智村)が危険な為に新たな官道として12年の歳月を掛けて開削されたのが「岐蘇(吉蘇)木曽路」である。吉蘇路(きそじ)の鳥居峠は、かつて「県坂」(あがたざか)と呼ばれていた。木曾谷地方の信濃国編入以前は、峠の東側を北に向かって流れる奈良井川信濃川水系)と、西側を南に向かって流れる木曽川(木曽川水系)との中央分水嶺境峠長野県道26号奈川木祖線)・木曽峠清内路峠鉢盛峠が信濃国と美濃国の国境であった。
    中世には「ならい坂」「やぶはら坂」と呼ばれた。美濃国と信濃国の国境に位置しているので、中世には戦いが何度も行われた。
    平安時代後期、以仁王令旨を受けた源義仲(木曽義仲)は平家追討の旗揚げをし、八幡宮にて挙兵の奉納をした後、県坂(現在の鳥居峠)御嶽遥拝所に参拝し、大夫房覚明に執筆させてここより出陣をしたとされる。硯水の傍に柳の木があり、義仲は枝を折り「我が事ならば、この柳に根を生じて繁茂するであろうと立ち去った」とされ、この柳はその後見事に根付き、成長したという伝説が残っている。渓斎英泉の浮世絵「木曽街道 薮原宿 鳥居峠」の絵には、木曽義仲の硯清水の碑と湧き水が描かれている。木曾義元が戦勝祈願のため、峠に鳥居を建てて以来、鳥居峠と呼ばれるようになったといわれている。  (wikipedia・鳥居峠_(長野県)より)]
    『木曾街道六拾九次 藪原』(渓斎英泉画)(wikipedia-photo)

    木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」- 「巻之4 – 36

    葵橋
    『木曽街道六十九次・宮ノ越』(歌川広重)(wikipedia-photo)

    木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」- 「巻之4 – 33

    [木曽川西岸からの絵図で、左ページ左端に「巴が淵」と記述され、街道が西岸から右ページの橋を渡り東岸方向に描かれ、旅人も描かれています。右ページの橋が葵橋で、右方向先が宮ノ越宿になるのではないかと思います。]

    福島関跡
    『木曾街道六拾九次 福島』(歌川広重画)(wikipedia-photo)

    小野の滝
    『木曾街道六拾九次 上松』(歌川広重画)(wikipedia-photo)

    『小野の滝』(葛飾北斎画)(wikipedia-photo)

    [木曽川本流のからわずか100mほど離れた支流にある落差15mほどの直瀑で、木曽山脈(中央アルプス)の風越山を水源とする。冬期の1月中旬 – 2月上旬頃には氷結する。
    小野の滝は、中山道の名所であり、木曽八景の一つとして有名であった。旧中山道は滝壺にほど近い場所を通っており、その姿は浮世絵にも描かれ、歌川広重と渓斎英泉による木曽海道六十九次や、葛飾北斎の諸国瀧廻りなどがある。  (wikipedia・小野の滝より)]

    木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」- 「小野の滝・巻之4 – 20

    「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」- 「木曽の桟道・巻之4 – 13

    須原宿桝形・鍵屋の坂、定勝寺
    『木曽街道六十九次・須原宿』(歌川広重)(wikipedia-photo)

    [『木曽路名所図会』(巻之4-16)の須原には、「淨戒山定勝禅寺」、「鹿島祠」の解説と図版「兼平羅城(えだしろ)」(巻之4-17)、「須原 定勝寺」(巻之4-18)の掲載があります。定勝寺は、宿場の西口にある臨済宗の寺で、「木曾義仲十一代の孫木曾右京太夫親豊の本願也」とあり、桜の大樹の下に墓もある旨の記述があります。『岐蘓路安見絵図』(須原-43)にも、「定勝寺木曽氏の寺なり」と注意書きが付されています。その先に今井兼平の城があった城山があります。これらから、須原が木曽氏ゆかりの宿場であることが判ります。また、大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p298)には、「すこしひきいりて大きなる寺あり。定勝寺といふ。小だかき所に鎮守の堂あり」と記し、後者は「鹿島祠」を指すと思われます。また、同書には、「右のかたの墓所のうちに大きなる桜一もとありて、そのもとに墓あり。これ木曾殿の御廟所なりといふ」ともあって、親豊の墓所のことを言っていると考えられます。
     広重作品を見ると、突然の白雨の中、後景には慌てて街道を走る旅人、前景には杉木立の間にある辻堂に逃げ込む人々が描かれています。『旅景色』(p53)は、その辻堂を宿場の南東にあって須原の鎮守であった鹿島神社と特定していますが、南畝の記述からも判るように鹿島神社は小高き丘にあるので、宿場内でかつ街道近くにあった不特定の辻堂(香取神社、天王社、鹿島神社御旅所など)と考えた方が現実的です。  (「40 信濃国 「須原」 – 浮世絵に聞く!」より)]

    伊奈川橋
    『木曾街道六拾九次 野尻』(渓斎英泉)(wikipedia-photo)

    [須原の宿をすぎてから、次の野尻宿との間にある伊奈川橋。絵はその遠景、遠くに「木曽の清水寺」といわれる岩出観音(現存)が、手前に伊奈川の急流が木曽谷の街道風情と迫力を感じさせる。  (「野尻・伊奈川橋遠景」より)]

    和合の枝垂梅
    『木曽海道六十九次・三渡野』(歌川広重)(wikipedia-photo)

    [三留野宿の住宅がとぎれるあたり東側に町指定の「和合の枝垂梅」がある。これは江戸時代に木曽谷有数の酒造家であった遠山氏の庭木であったものである。遠山氏は木曽谷で最初の酒造家であった。現在はこの枝垂梅を残すのみで建物は失われている。  (「遠山家住宅跡 – 木曽観光連盟」より)]

    しろやま茶屋跡・妻籠城跡(妻籠城 妻の神土塁 本郷丸山砦 座光寺仁右衛門屋敷 蘭お太子 …)
    『木曾街道六拾九次 妻籠』(歌川広重画)(wikipedia-photo)

    [築城時期は室町時代中期である。標高521mに位置し、戦国時代には木曾義昌が城主であった。本城は東西約30メートル、南北約40メートルで、四周に土塁と帯郭を巡らせた茶臼型の山城である。北東に張り出した屋根に空堀を施し、その先端に郭を築いている。大手は東方鞍部で前面に構えの郭があり、両側断崖の土橋上の小道を経て本城に入る構造となっている。
    16世紀中期に木曾氏甲斐武田氏に従っていたが、妻籠城改築の年と伝わる天正10年(1582年)に入って間もなく織田氏に寝返った。織田信長はこの出来事を好機と見て、木曽伊那、そして徳川家康遠江から大軍を武田氏がいる甲斐へと攻め寄せ、滅亡させた。天正12年3月(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいて、木曾義昌は当初、徳川家康に付いていたが、羽柴秀吉に寝返った。同年9月、妻籠城に山村良勝を入れて、徳川方の菅沼定利保科正直諏訪頼忠らと戦い撃退した。元和2年(1616年)の一国一城令により、廃城になった。  (wikipedia・妻籠城より)]
    木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」- 「鯉岩・巻之4 – 11