下地図右のサードバーのマーカーポイント名をクリックすると、上地図がそのマーカーポイントにズームし、下地図にマーカーポイントの吹き出しが表示されます。また、吹き出しにもリンクを設定しています。
小紅の渡し(河渡の渡し裏街道)
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」 – 「河渡川・3巻 – 43p」
[小紅の渡し(おべにのわたし)は、岐阜県岐阜市の長良川で運航されている渡し船である。県道の一部(岐阜県道173号文殊茶屋新田線)になっており、岐阜市が岐阜県に代わり運営している。小紅渡船船頭組合による操船であり、女性1人を含む4人の船頭が交代で運航にあたっている。無料で乗船できる。
小紅の渡しの名が登場するのは、江戸時代の1692年(元禄5年)のことである。元々は中山道の河渡の渡し(現・河渡橋付近)の裏街道であったが、梅寺瀬踏開運地蔵(梅寺は瑞甲山乙津寺の別名、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が霊験を受けた地蔵菩薩)への参拝者もあり、利用者は多かった。 (wikipedia・小紅の渡しより)]
『木曽街道六十九次 河渡 長柄川鵜飼』 (渓斎英泉)(wikipedia-photo)
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」 – 「長良川 鵜飼舩・3巻 – 50p」
犀川
『木曽海道六十九次・みゑじ』(歌川広重)(wikipedia-photo)
[美江寺という名は、「美しき長江のごとくあれ」と祈念されて美江寺という寺院が建てられた事に始まる。719年(養老3年)創建の十一面観音を本尊とした寺院。
歌川広重の「木曽海道六十九次・みゑじ」の場所は、美江寺宿の南端から京へ1町ほど(=109m)。描かれている川は犀川(さいがわ)と推定され、このあたりは海から約50km離れているにもかかわらず海抜は約10m、とても平坦で坂があるのはここくらいである。
広重の絵の通り、今でも柿がなり、竹藪がある。大雨が降ると、絵のような水辺が広がる。遠景の藁葺き屋根は美江寺宿の民家。その奥のこんもりした森は神社と推測される。民家の手前は堤防で、約40年前に桜が植えられ、現在桜祭りが行われている。 (wikipedia・美江寺宿より)]
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」 – 「呂久川 杭瀬川ともいふ・3巻 – 37p」
[呂久の渡しは、中山道の赤坂宿と美江寺宿の間を流れる呂久川(現揖斐川)にかかる渡し場です。天正 8 年( 1580 )12 月、織田信長の子信忠によって設けられました。
安土桃山時代、織田信長が近江の安土城に居所を移したころから、美濃と京都の交通が頻繁となり、赤坂・呂久・美江寺・河渡・加納の新路線が栄え、呂久川にも渡し場が設けられたのでした。これが江戸時代初期に整備された五街道のひとつ・中山道となり、呂久の渡しもそれ以来、交通の要所となりました。慶長 15 年ころには、呂久の渡しの船頭屋敷は 13 軒を数え、中でも船頭寄「馬淵家」には、船頭 8 人を置くほどでした。
呂久の渡しの川幅は平常時で 90m 、大水では 180m にも及び、流れの速い難所でした。このため、水位が 45 %で馬が通行禁止となり、50 %で川止めとなりました。
この渡しを特に有名にしたのは、文久元年( 1861 )、皇女和宮が 14 代将軍家茂のもとに降嫁のため、船渡しされてからです。
皇女和宮はこの地で対岸の馬淵孫右衛門の庭の美しい紅葉をみて、
「落ちてゆく 身と知りながらもみじばの 人なつかしくこがれこそすれ」
と詠まれたが、国を救わんと身を犠牲にして下向された気持ちが表されています。現在は、和宮遺跡としてこの馬淵家の庭を「小簾公園」として昭和 4 年に開園し、歌碑などを建立しています。毎年、春と秋には祭礼が行われています。 (「木曽川下流河川事務所 – 国土交通省中部地方整備局」より)]
赤坂湊跡
『木曽街道六十九次・赤坂』(歌川広重)(wikipedia-photo)
[赤坂湊跡に建つ洋風建築の赤坂港会館は、明治8年(1875年)に中山道と谷汲街道の分岐点に建てられた警察屯所でした。現在の建物は復元されたもので、内部は資料館となっています。赤坂湊跡はかつては水運で賑わい、500艘もの船が往来する川湊でした。しかし、美濃赤坂線の開通に伴い、合わせて下流に水門が建設されたことにより船の航行が困難となり廃絶しました。現在は親水公園として整備されています。 (「[28] 赤坂港会館と川湊跡 | 大垣市公式ホームページ」より)]
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」 – 「赤坂 寶光院虚空蔵・3巻 – 34p」
[絵図左ページの「八まん」は八王子神社(濃州赤坂宿証録には牛頭天王子処空屋鎮守也)のことと思われます。その上に明星輪寺寶光院が描かれています。]
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」 – 「垂井清水 南宮一鳥居・3巻 – 16p」
[絵図右下に南宮大社石鳥居、中央左に垂井の泉が描かれています。]
「南宮金山彦神社・3巻 – 16p」
[岐阜県西部、南宮山の山麓に鎮座する。「国府の南に位置する宮」として「南宮」を名乗るようになったとされる。鉱山を司どる神である金山彦命を祭神としており、全国の鉱山・金属業の総本宮として古くから信仰を集めている。境内には江戸時代の遺構 18 棟が残っており、国の重要文化財に指定されている。式年遷宮は51年毎に行われる。 (wikipedia・南宮大社より)]
美濃国養老の滝(みのこくようろうのたき)(wikipedia-photo)
[大判錦絵 天保4年 (1833) 頃
本シリーズは8図が知られています。養老の滝は岐阜県養老郡養老町にあります。この滝には、貧しいきこりが父に滝の水を飲ませたところ、滝の水が酒に変わったという伝説があります。本図では、滝、滝壺からあがる水飛沫みずしぶき、うねるような川の水、もくもくと立ち上る霧、といったように様々な水の姿が表されていますが、滝を見上げる旅人と、川のそばに腰を下ろす旅人を描くことで、滝だけではなく川の流れにも鑑賞者の目を誘っています。 (「諸国瀧廻 美濃ノ国養老の滝 – すみだ北斎美術館」より)]
垂井宿 西見附跡
『木曽街道六十九次・垂井』(歌川広重)(wikipedia-photo)
[当作品の制作過程は、やはり、広重の後掲スケッチ帖が元絵と考えられます。西の見付辺りを遠近法を用いて描いていることが判ります。背景全体はほぼ同スケッチ帖に従っていますが、雨の中大名行列の駕籠が宿役人の先導のもと宿場内に入り、それを宿内の人々や旅人が出迎えている表現については、構想部分と考えられます。何よりも目を引くのは、左側の「おちや漬」、右側の「御休処」の店の壁に飾られている浮世絵です。とくに左の茶屋の看板には、「山形に林」の版元錦樹堂の意匠が書かれています。 (「58 美濃国 「垂井」 – 浮世絵に聞く!」より)]
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」 – 「関ケ原 野上里・3巻 – 14p」
[図会下近景に八まん宮(八幡神社)が描かれています、この周辺が関ケ原で、八幡神社西側の道が旧北国街道で、街道口に北国かい道と記述されています。また、八幡神社右下が関ケ原宿本陣になります。図会上・遠景に野上の里(現関ケ原町野上)、班女旧蹟玉の井と記述されています。真念寺に班女の観音堂があり、そこの東側の道先に大海人皇子野上行宮跡(野上行宮跡)があります。]
関ヶ原宿京口跡(大神宮常夜灯)
『木曽街道六十九次・関ヶ原』(歌川広重)(wikipedia-photo)
[関ヶ原は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の古戦場として知られている、現在の岐阜県不破郡関ヶ原町です。東西に木曽街道(中山道)が通り、北国街道・伊勢街道が南北に通る交通の要所でした。上の絵にも茶店で休む旅人や、馬を引いて客を待つ馬子などが描かれています。茶店には草鞋(わらじ)らしいものも見えますが、「名ぶつさとうもち」「三五そばきり うんどん」の看板もあります。
砂糖餅は、江戸時代の菓子製法書には見当たらず、茶店などで売っていた庶民的な菓子のようです。『東海道中膝栗毛』の中にも、岡崎と池鯉鮒(ちりう)の間の今村という立場(たてば)の茶店に、名物の砂糖餅と鶉焼(うずらやき)があり、両方とも1個3文です。砂糖餅は丸い餅としていますから、砂糖入りの甘い丸い餅だったようです。
三五そばきり・うんどんとあるのは、二八そばと同様に価格を表すものと思われます。二八そばは、そば粉とつなぎの小麦粉の使用割合とする説もありますが、二六うどんの看板も見られ、うどんにはつなぎは用いないので、二八は16文、二六は12文と考えるのが妥当です。茶店の看板の三五も15文と考えられます。 (「江戸食文化紀行-江戸の美味探訪- no.243「木曽街道の関ヶ原」」より)]
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」 – 「関藤川 不破古関・3巻 – 12p」
[「関の藤川」は、現在は「藤古川」と呼ばれ、関ケ原を北西から南東へと二分するように流れています。この川は伊吹山麓に端を発し、不破関の傍を流れていることから、「関の藤川」と呼ばれていました。壬申の乱では、両軍がこの川を挟んで開戦しました。東側の松尾地区の住民は大海人皇子方を支援し、西側の藤下・山中地区は大友皇子方を支援しました。壬申の乱以後も松尾地区は天武天皇(大海人皇子)を祀って井上神社と号し、藤下・山中地区は弘文天皇(大友皇子)を若宮八幡宮神社の祭神として現在に及んでいるそうです。
「不破関資料館」から「自害峰」へ通じる道を歩くと、緑溢れる藤古川が見えてきます。春は川沿いの桜が咲き乱れ、夏はホタルが舞い飛び、美しい四季を感じさせます。また、この川は古来より歌枕として知られ、数多くの詩の題材となった場所でした。代表的な句として、古今和歌集に掲載されている「美濃の国 関の藤川 絶えずして 君につかへむ 万代(よろづよ)まで」があります。 (「関の藤川(藤古川) | スポット情報 – 関ケ原観光ガイド」より)]
美濃国・近江国「国境碑」
『木曽街道六十九次・今須』(歌川広重)(wikipedia-photo)
[「江濃両國境」と書かれた榜示杭の後方美濃側が両国屋、前方近江側が近江屋にそれぞれ該当します。当作品の店の看板には、「寝物語由来」と「不破之関屋」という案内があり、まさに、広重の取材通りの言葉が書かれています。その中間の目立つ場所に、「仙女香美玄香坂本氏」と読める看板があって、江戸京橋・坂本氏の白粉と髪染めの宣伝となっています。遠方の旅人は今須峠を越えてくる旅人のイメージで、スケッチ帖にも「小坂」との注意書きがあった部分です。注意を要するのは、近景の旅人が何かを見上げるポーズをとっている部分です。浮世絵の定型的表現からすると、国境の榜示杭を見ているということになります。実景描写と考えれば、左の近江と右の美濃の山々を見比べ、古名・たけくらべの里を表現しているのかもしれません。いずれにせよ、そこには、ついに美濃最西端の宿場まで来たという庶民感情が仮託されているはずです。 (「60 美濃国 「今須」 – 浮世絵に聞く!」より)]
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」 – 「美濃国・近江国「国境碑」(寝物語里) 3巻 – 6p」
伊吹堂 亀屋佐京商店
『木曾街道六拾九次 柏原』(歌川広重画)(wikipedia-photo)
[お灸の故郷、伊吹もぐさ亀屋佐京商店は、伊吹山の麓でお灸やもぐさを製造・販売する会社です。創業は寛文元年(1661年)。中山道六拾九次・六拾番目の宿場町に今も江戸期の風情を残す店構えでお客様をお待ちしています。また木曽海街道六拾九次之内柏原の版画絵の中で歌川広重が亀屋の店頭風景を描いており、その絵の中には裃を付けて扇子を手に持ち大きな頭に大きな耳たぶという福々しい姿で街道を往来する旅人を見守る福助人形の様子も描き込まれています。福助人形の起源には諸説あるものの福助人形発祥の店としても多くの方に親しまれています。
版画絵は1850年代頃の亀屋佐京商店店頭。今も当時の風情をそのままに伝えています。駕籠舁きが二組、前後にひかえていて、もぐさを買いに行ったであろう客を待っている。番頭には大きな福助の人形と伊吹山の模型がすえられていて、客はいずれも旅人である。番頭が一人、小僧が一人、対応している。店舗は二つにわかれていて、むかって左が販売用の店構えでなく、七兵衛独創したところの休憩所になっている。茶庭の待合に似た風雅な構造で、ふつううの待合よりも広い。長い床几が三台おかれていて、むかって右の店頭の客より身分のよさそうな客が二人、たばこをのんでいる。 (「もぐさの亀屋」より)]
六軒茶屋跡標柱
『木曽海道六十九次「醒ヶ井」』 (歌川広重画)(wikipedia-photo)
[スケッチの場所は、宿場の西口外れ、枝分かれした大松があった六軒町辺りと考えられ、前掲「垂井」や「関ヶ原」など、宿場の西口辺りを描く作品が続いています。大名行列が宿場に向かう中、竹馬を担ぐ足軽と槍を担ぐ中間が殿(しんがり)を歩んでいます。大名行列が描かれているのは武士に係わる事柄が画題となっているからで、この場合は、醒井が日本武尊という古代の武人ゆかりの里だからです。農夫が、小高い丘の上で煙管を吹かしながら、座って大名行列を眺めています。 (「62 近江国 「醒井」 – 浮世絵に聞く!」より)]
[六軒茶屋 – 享保9年(1724年)以降、郡山藩領となった醒井宿の領域の西端に、彦根藩領(枝折)との境界を示すため、茶屋6軒を建てたことに始まるとされる。現在、草葺屋根であった家屋1軒が残存する(※2020-06-23には取り壊されている。)のみであるが、昭和30年代にはおよそ6軒が並び建っていた。 (wikipedia・醒井宿より)]
番場宿東見附跡
『木曾街道六拾九次 番場』(歌川広重画)(wikipedia-photo)
[広重は、一見するとそれらに触れず、自身の後掲スケッチ帖を元絵として、東口の見付辺りから、店々の多くの看板等を描きながら、宿場内を覗き見る作品を制作しています。たとえば、右側には、版元錦樹堂の意匠と「いせや」とあり、「一膳めし酒さかな」の提灯も下げられています。左側には、絵師広重のヒロの意匠と「歌川」とあって、「そばきり一ぜん」の提灯が下げられています。つまり、店というよりは、制作者の宣伝となっています。なお、見付(棒鼻)の前に3組の帰り馬の馬子が屯している風情は、広重が時々使う手法で、追分の宿であることを表現するものです。実際、番場は米原道との追分に当たります。 (「63 近江国 「番場」 – 浮世絵に聞く!」より)]
摺針明神
『木曾街道六拾九次 鳥居本』(歌川広重)(wikipedia-photo)
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」 – 「磨針嵿・2巻 – 30p」(拡大図)
[中山道は、鳥居本の宿場町から山道を登って江戸へ下っていきました。山道を曲がると急に視界が開け、この峠から眺める琵琶湖や湖東平野の眺めは最高だったといわれます。
昔、諸国を修行して歩いていた青年僧が、挫折しそうになってこの峠を通りかかった時、斧を石で摺って針にしようとしている老婆の姿にいましめられ、後に弘法大師になったと伝えられています。
その後、弘法大師が植えたたとされる杉が磨針明神宮(すりばりみょうじんぐう)の社殿前にあり、太いしめなわがはられています。現在、峠より一段高い所にありますが、以前峠はこの杉のすぐ脇を通っていたといわれています。また、杉の真下に「望湖堂(ぼうこどう)」という名の峠の茶店が保存されていましたが、平成3年(1991)に残念にも火災にあい焼失しました。 (「中山道磨針峠 – 滋賀県観光情報」より)]
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」 – 「鳥居本 神教丸店・2巻 – 28p」
[鳥居本宿有川市郎兵衛家の神教丸は、腹痛、食傷、下痢止めの妙薬として有名で、350年以上の歴史を誇っています。創業は万治元年(1658)と伝わり、お伊勢七度、熊野へ三度、お多賀さんには月詣り」とうたわれた多賀神社の神教によって調製したことが始まりといわれ、このことから「神教丸」という名がついたといいます。多賀の坊宮が全国を巡回して多賀参りを勧誘する際、神薬として各地に持ち歩いたのでしょう。有川家では、『近江名所図会』に見られるような店舗販売を主に行い、配置売りなどの行商の形態をとらなかったので、中山道を往来する旅行者が競って赤玉神教丸を求めました。別の販売所としては、享保15年(1730)に大津髭茶屋町に出店しているのが唯一でした。 (「赤玉の歴史 – 赤玉の元祖・赤玉神教丸の有川製薬」より)]
無賃橋
『木曽海道六拾九次之内 高宮』(歌川広重)(wikipedia-photo)
[中山道高宮宿入口(愛知川宿寄り)に位置する。高宮橋(たかみやばし)が正式名称。中山道諸宿場が整備されてからも長らく橋が架られていなかったが、1767年(明和4年)に高宮宿の庄屋・問屋有志が彦根藩に申請し仮設橋を架けた。しかし幾度もの大雨で橋が度々流されていた。この状況を危惧した彦根藩が1832年(天保2年)に近隣の豪商である小林吟右衛門・馬場利左衛門・藤野四郎兵衛(江州音頭2代目又十)らに命じ石造りの橋が同年の9月に完成した。翌年1833年(天保3年)には高宮宿の有志が彦根藩より高宮橋株を買取り、無料で通行ができるようになった。この経緯から無賃橋と呼ばれるようになった。同年には無賃橋の標石が建てられた。 (wikipedia・無賃橋より)]
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」 – 「高宮布・2巻 – 21p」
[滋賀県の湖東地域は、室町時代より麻織物を産する地域として知られています。特に江戸時代には、奈良晒や越後縮とならび称されるほどの良質な麻織物「高宮布」の産地としてその地位を築きました。中山道高宮宿は湖東地域で生産された上質な麻布の集積地で、彦根藩は「高宮布」を保護し、将軍家への献上品としました。明治に入り、麻布生産の産業構造が大きく変化し、生産拠点は愛知郡、神崎郡(現在の愛荘町、東近江市)に移行し、近代化に伴う技術革新、生産組織の確立などを経て麻織物の産地として発展し続けていきました。
そして昭和52年、絣、生平が「近江上布」として国の伝統的工芸品に指定されました。 (「Collaboration Project with TOYOTA TSUSHO」より)]
「高宮駅 多賀大鳥居・2巻 – 24p」
[図会左ページに多賀大社大鳥居、右ページ右端の高宮嶋は近江上布のことです。]
[多賀大社から西方約4キロメートルの表参道に面して位置する石造明神鳥居は、同社の旧境界域を示しています。
多賀大社の創立は、奈良時代に完成した「古事記」や平安時代に編纂された「延喜式」にも見られます。
「一の鳥居」は社蔵文書に「寛永12年3月鳥居着工」の記述があり、社殿が元和元年(1615年)の火災の後、寛永年間に造営されているので、この時に建立されたものと考えられます。
この鳥居は円柱を内転びに建て、頂上に反り付きの島木とその上に笠木をのせ、やや下がったところに貫を通して、中央に額束を据える明神鳥居形式で、現存する鳥居の中でも最も多い形式の一つです。
県下の石造り鳥居としては、構成する部材は太く、均整がとれて古式を示し、また、最大のものであって、建立年次が明らかな点で貴重な遺構です。 (「県指定文化財 多賀大社 一の鳥居 – 彦根観光協会」より)]
愛知川御幸橋
『木曽海道六拾九次之内 恵智川(愛知川宿)』(歌川広重)(wikipedia-photo)
[江戸時代、頻繁に洪水を引き起こす「暴れ川」として知られていた愛知川。当時、人々は愛知川を渡るのに川渡しを業とする川越人足や仮設の橋(勧進橋)を利用していましたが、路銭を持たない旅行者は自力で川を渡ろうとし、水かさの増した急流に飲まれ溺死する事例がしばしば起きました。当時の愛知川が「人取り川」の異名を取る由縁です。
天保2年(1831)、愛知川村の成宮弥次右衛門(忠喜、1781-1855)は、近村の素封家らとともに銭を払えない人々でも橋が渡れる無賃橋(太平橋)を愛知川に架橋します。資金調達や金銭的補償など、橋の完成までの道のりは険しかったものの、渡り初め式は大勢の人出で賑わいました。 (「令和3年度夏季特別展「愛智河架橋略史 ― 無賃橋と御幸橋 ― 」」より)]
横関川(現日野川)渡し跡
『木曾街道六拾九次 武佐』(歌川広重)(wikipedia-photo)
[ 中山道六十九次の内・武佐
中山道は別名『木曽海(街)道』とも呼ばれていた。 その中山道六十九次の第六十七番目が武佐宿である。 この絵は浮世絵師安藤広重が武佐の西にある日野川(横関川)の舟渡しの様子を描いたものである。 文化3年(1806)幕府が作成した『中山道分間延絵図』には『平常渡し場、小水之節ハ舟二艘ツナギ合セ舟橋トナシ往来ヲ通ス』と注記されていることから平常旅人はこの川を舟で渡り、水量が減ると川に杭を打って止めた二艘の舟の舟の上に板を渡して作った舟橋を渡っていたことになる。 そうして、広重は大助郷の東横関村をあえて武佐としたと考えられる。 日野川のこの場所に、橋が架かったのは明治8年(1875)のことであり、明治19年(1886)には無賃通行となり、それから明治26年(1893)に新調されたが、道路は中山道から国道8号となり、その新道として昭和12年(1937)近代的な横関橋が、この上流に架橋され、旧い橋はその2年程後に撤去された。 現在も、ここから日野川をはさむ両側には、かつての中山道の道筋が旧道として残っている。 また、河原に下れば、かつての旧道の橋の名残りも確認できるので、往古の情景を思い浮かべていただきたい。 (「紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅 – 日野川(横関川)の渡し場跡(北側)」より)]
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」 – 「野洲川」( 1巻 – 36 )
[野洲川や 身ハ安からぬ さらしうす 芭蕉翁
野洲川・・・この川を渡れば守山宿です。野洲川は野洲晒しが有名で、麻布を白くさらす「布晒」を専門に行っていました。その一工程に川の中に据えた臼に布を入れ、杵でつく作業があるそうです。
冬の冷たい川に入って布をつく仕事は、晒の仕事の中で最も重労働であり、その苦労がしのばれます。
ここから見る三上山は、近江富士と呼ばれるにふさわしい姿です。 (「鏡の宿から守山宿へ⑤・・・野洲川(やすがわ)」より)]
「野洲布晒」( 1巻 – 37 )
「三上山 三上神社」( 1巻 – 40 ・御上神社)
どばし
『木曾街道六拾九次 守山』(歌川広重画)(wikipedia-photo)
[「野洲川」の図版と、大田南畝『壬戌紀行』の記述「野洲河原ひろくして、むかひの河原に布をさらせるあり」とを参照すると、当作品に描かれる川は野洲川とは考えられず、おそらく、宿場南で中山道に交差し琵琶湖に流入する守山川と判定されます。本来は街道に直交する川ですが、街道に沿うように曲げられて描かれています。木曽海道シリーズにおいて、広重が時々見せていた手法です。広重のスケッチ帖に元絵を発見できないので、構想作品に戻ったと言えます。守山川に架けられた土橋辺りから、街道東側の旅籠・茶店などに視点を向け、その前後の山に咲く桜を見ながら、なによりも背景の三上山を眺望するという構図重視の作品です。そのため、街道西側の建物が見えないという不思議な図取りです。三上山を富士に例えて、満開の桜で飾り、雅な雰囲気を狙ったのかもしれません。三上山の位置からすると右側が京方向となります。なお、当作品中央辺りの黒色の屋根の店には錦樹堂の意匠が、黄色の屋根の店には「伊せ利(いせり)」という同版元の宣伝がそれぞれ入れられています。 (「68 近江国 「守山」 – 浮世絵に聞く!」より)]
草津川
『木曽街道六十九次・草津』(歌川広重・水無川の天井川(草津川)を渡る人々)(wikipedia-photo)
[草津川の水源となる金勝・田上山系は風化した花崗岩で形成されたもろい地質で、大雨で多量の土砂が流出することが天井川化を促したと考えられる。草津川の天井川化は江戸時代に始まるとされている。古文書から1700年代末ごろまでは天井川であったことを確認できず、河底に国道のトンネルを開通させた明治19年までの間に、多量の土砂流出と堤防の積み上げにより短い期間に一気に形成されたものと考えられている。天井川が形成されて以降は、増水のたびに河川の氾濫を繰り返すようになったことが、記録に多く残された。さらに近年になると草津市が京阪神地区のベッドタウンとして発展した。そのため、市街地を南北に分断することになる。人口と資産の増大にともない被害も甚大なものとなっていった。この対策として現存河川の河底を掘り下げることよりも、新河川への切り替えが防災面コスト面とも有利であると判断され、2002年に放水路による下流部の付け替えが行われた。 (wikipedia・草津川より)]