木曽海道六十九次(新町宿-坂本宿)

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    温井川弁天橋
    『木曾街道六拾九次 新町』(歌川広重画)(wikipedia-photo)

    [新町宿の東口が神流川ならば、西口は温井川(ぬくいがわ)に当たります。というわけで、本作品で広重が描く場所は、その温井川に架かる弁天橋です。かつては川の中洲にあった弁財天(水神)の祠ですが、今は橋の袂にあります。この橋を彼岸(立石新田)に渡って、いよいよ広重の「木曽海道」の旅が始まるというわけです。英泉は挿絵を繋いだような独特な表現技術を採っていましたが、広重も実写からは離れた技を見せています。それは、橋を渡った後、本来ならば真っ直ぐ左に進むであろう街道を曲げて左手前に持って来ているところです。これによって、街道を旅する人々の情景を見やすく描き込むことができます。そして、その背後に富士のように見える赤城山を加えて、上野国のランドマークを入れる細かい気遣いを示しています。  (「12 上野国 「新町」 – 浮世絵に聞く!」より)]

    五貫堀太鼓橋
    『木曾街道六拾九次 倉賀野』(渓斎英泉画)(wikipedia-photo)

    [三光寺境内稲荷は村人からは冠稲荷と呼ばれ、特に宿の飯盛女の信仰を集めていた。社会の底辺に生きている飯盛女にとっては、何かを信仰せずには一日も生きていけなかったのである。その信仰心が玉垣の寄進という形をとったのである。現在の倉賀野神社には三光寺稲荷社に寄進した飯盛女たちの玉垣が移転されて現存している。鳥居横の玉垣には「金沢屋内、里津・ひろ・ぎん」名が刻まれているが、これは玉垣作成の時の飯盛女の名である。倉賀野神社境内にある冠稲荷神社を囲む玉垣には寄進者である飯盛女の名が刻まれている。
     暗渠の五貫堀川を歩いて下っていくと烏川にでることができた。暗渠から奇麗な堀川の水がとうとうと流れ出て烏川に注いでいる。美人画の英泉と歌川広重が合作のかたちで天保6年(1835年)ごろ完成させた『木曽街道六十九次』の中に英泉が描いた『木曽街道 倉賀野 宿烏川之図』の風景画がある。
     烏川は利根川の上流で江戸との間に舟運が開けていた。舟が行きかう烏川を背景に川縁に建つ茶屋が描かれている。小川に張り出した桟で女が束子で釜を洗っている。小川に流れ込む用水(五貫堀川)で子供が網で魚を捕ったり、亀を捕まえたり,水門に上がり遊びに夢中である。茶屋では菅笠と杖を脇に置いて休んでいる旅の女が子供たちの遊んでいる様子に見入っている。一見のどかな風景画に見えるが、烏川舟運と女、子供の明るい姿には違和感を覚えてくる。違う世界の倉賀野宿に見えてくるのだ。英泉は何を描こうとしていたのだろうか?  (「倉賀野宿を歩く②…五貫堀川・飯盛女と倉賀野河岸 – 銀次の …」より)]

    第1回 倉賀野巡り – 歴史と空間-

    和田橋(烏川・碓氷川合流点)
    『木曾街道六拾九次 高崎』(歌川広重画)(wikipedia-photo)

    [広重作品の視点が川の合流地点辺りにあることが浮かび上がってきます。すなわち、遠景に榛名山、中景に高崎川(烏川)に架かる仮橋と川の流れ、近景の茶屋の背後には碓氷川との合流点がそれぞれあって、茶屋の中で煙管を持つ客は、名産高崎煙草を宣伝しつつ、川の岸(土堤)の上に位置する高崎城を見上げていることが判ります。そして、橋に続く家々や一番手前の4人の部分は、本来ならば橋を渡って西に向かう中山道の様子を紹介するために、特別に抜き書きされた部分図と考えなければなりません。つまり、家々は次の豊岡の立場風景であり、人物は街道での人間模様というわけです。  (「14 上野国 「高崎」 – 浮世絵に聞く!」より)]
    和田橋(烏川・碓氷川合流点)画像(Google Map 画像)

    板鼻川橋
    『木曾街道六拾九次内板鼻』 (渓斎英泉画)(wikipedia-photo)

    安中原市の杉並木
    『木曾街道六拾九次 安中』(歌川広重画)(wikipedia-photo)

    [当作品で目を引くのは街道両脇にある竹藪です。この点に関し、『木曽路名所図会』(巻之5-47)に間の宿「原一村」について、「神明のやしろあり。此近郷網細縄を商ふ。又竹細工の類あり」と記していることに注意が必要です。後掲『岐蘓路安見絵図』(安中-p19)も宿場の西側にあった杉並木と社を越えた辺りに、「あみほそ引又竹細工類あり」と注意書きを入れています。そして、街道のその先は、茶屋本陣(五十貝家)、八本木の立場と続きます。つまり、安中宿から原市の杉並木を通り過ぎた大名行列が、大名や公家などの休憩施設のある茶屋本陣あるいは八本木の立場茶屋を目指す様子を俯瞰して描いているものと解されます。街道先の家も、茶屋というよりは、先の竹細工などを売っている店と考えられます。丘陵部には上州の名産である梅の木が植えられ、店の隣では梅を干す風情です。街道右脇の樹下に見える石塔は、たぶんこの辺りに多く見られる道祖神でしょう。  (「16 上野国 「安中」 – 浮世絵に聞く!」より)]

    丸山坂・夜泣き地蔵と茶釜石
    『木曾街道六拾九次 松井田』(歌川広重画)(wikipedia-photo)

    [当作品を具体的に見ると、松の大木の下に榜示杭、石標、関札があって、ここが松井田宿の入口に当たることが想定されています。その後ろに青と赤の幟が立つ祠は、道祖神です。琵琶窪を過ぎた、上りの逢坂を右半分に描き、左半分には街道下の低地から遠くに碓氷峠が見える様を描いています。坂を下る馬は麻、紙、煙草など信州から運ばれる荷などを運ぶもので、馬子も乗って坂を上る馬は、松井田に集められる米を運ぶものです。手前の天秤棒を担ぐ男は行商人です。これらは、松井田が「米宿」と呼ばれ、信州各藩や旗本の江戸回米の中継地点であったことに対応する表現です。ちなみに、年貢米の半分は松井田で売られ、残りは倉賀野に運ばれて一部処分され、残りが扶持米として烏川から利根川を経由し江戸に運ばれます。米相場が立つなどの経済的繁栄の結果、松井田の人口は、『宿村大概帳』によれば1,009人を数える大きな規模です。  (「17 上野国 「松井田」 – 浮世絵に聞く!」より)]

    坂本宿佐藤本陣跡
    『木曾街道六拾九次 坂本』(渓斎英泉画)(wikipedia-photo)

    [現在の群馬県安中市松井田町坂本。JR信越本線横川駅から国道18号線(旧道)を軽井沢方向に2kmほど行ったところにあり、その途中に碓氷関がある。中山道有数の難所であった碓氷峠の東の入口にあたり、本陣脇本陣合わせて4軒、旅籠は最盛期には40軒ある、比較的大きな宿場であった。  (wikipedia・坂本宿より)]