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軽井沢宿西の桝形
『木曽街道六十九次・軽井澤』(歌川広重)(wikipedia-photo)
[広重は、「東海道五拾三次」やこの「木曾街道六拾九次」のシリーズで、街道のさまざまな風景や風俗と合わせて、叙情的な図も描いて、彼の特徴の一つとして確立しました。この作品は、その叙情的な部分の代表的なもので、夜になり、宿場に急ぐ(夜間の宿場の出入りは禁じられていました)旅人が、軽井沢の宿場に近づいたところで焚き火を見つけ、一服する一瞬を描いています。
暗闇迫る黒暗色をベースに、焚き火や提灯(ちょうちん)の明かりが対照的なコントラストを見せています。当時の旅にあって、火は不可欠なものであり、このような焚き火は、旅人の心を和ませたことでしょう。こんな状況での一服はさぞや至福(しふく)の一時だったのではないでしょうか。 (「歌川広重画「木曾街道六拾九次之内 軽井沢」 – たばこと塩の博物館」より)]
草津道道標
『木曾街道六拾九次 沓掛』(渓斎英泉画)(wikipedia-photo)
[当作品の遠景は、寒風吹き荒ぶ沓掛宿の入口辺りの風景かと思われます。「雨中之景」となっているのは、浅間山の南麓一帯が寒気の下りる(浅間おろし)厳しい原野であるというこの地域のイメージを、激しい風雨によって表現しようとしていると考えるべきです。そして近景に描かれるのは、この辺りを行き交う旅人や荷物を運ぶ牛を引く人の姿です。英泉の作品に登場する手前の人物は、その宿場の特徴を表していることが多く、ここには、次のような事情が反映されていると思われます。すなわち、沓掛は、東に碓氷峠あるいは借宿からの入山峠を通じて、米宿・松井田そして倉賀野と繋がり、また北や西に追分から信州各藩と繋がるなど、重要な運送ルートに位置しており、当地の農民などが牛馬を使って荷物を直送する中馬(岡船)が少なくなかったということです。当作品は、信州への帰り道の様子でしょうか。 (「20 信濃国 「沓掛」 – 浮世絵に聞く!」より)]
追分宿 分去れ(わかされ)の道標
『木曾街道六拾九次 追分』(渓斎英泉画)(wikipedia-photo)
[追分宿(おいわけしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十番目の宿場。
現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分にあたる。北国街道(北陸道)との分岐点でもあり「追分」の名はこれに由来する。元禄時代には旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒を数え、飯盛女も最盛期には200~270人もいたとされるほど栄えた。また、民謡に多く見られる追分節の発祥の地である。旧脇本陣の油屋は、堀辰雄や立原道造、室生犀星らに愛され、堀辰雄の小説『菜穂子』、『ふるさとびと』に登場する牡丹屋という旅館はこの油屋がモデルである。 (wikipedia・追分宿より)]
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」- 「浅間嶽・巻之5 – 35」
[図会右ページ右端に追分宿、そこの左に追分宿 分去れ(わかされ)の道標、常夜燈が描かれています。浅間山の麓、皎月原を木曽海道が通ります。]
皎月原
『木曾街道六拾九次 小田井』(歌川広重画)(wikipedia-photo)
[皎月原は旧中山道(現主要地方道佐久軽井沢線)沿い、小田井宿と岩村田宿の中間にある。松の木立のある草原は、古くから皎月の輪に関する伝説があって、記録にも残されており、中山道における著名な名勝とされている。伝説によれば、用明天皇元年(586)、皎月という官女がおとがめをうけて、佐久郡の平尾へ流されてきた。いつも白馬を愛していた官女は、ある時小田井の原へ馬をひきだして乗りまわしていた。ところが天の竜馬だった白馬は空へかけ上り、東西南北をかけまわった後、平尾山の頂上に立ちとどまった。そこで官女は「われは唯人ではない。白山大権現だ」といって光を放って岩の中へ入ってしまった。その後、官女を白山大権現というようになった。その後も権現様は時々小田井の原へきて、馬の輪乗りをした。そのあとには草が生えなかったので、そこを皎月の輪とよぶようになったというのである。ほかに「村上家伝」の村上基国の伝記には、異説が載っているという。 (「155 皎 月 原 – 佐久市」より)]
中山道平塚一里塚跡
『木曾街道六拾九次 岩村田』(渓斎英泉画)(wikipedia-photo)
[この陶額(画像リンク)の原画は、中山道六十九次 第二十三図「木曽道中 岩村田 渓斎画」が元絵です。渓斎英泉(1790~1848)は江戸時代後期に活躍した日本の浮世絵師。美人画を多く描く。晩年は文筆も手掛ける。
「この浮世絵を陶板にして欲しい。」と言う依頼を受け、元絵を見てびっくり。約200年前の岩村田宿ですが、訳あって旅の情緒が無視され、何とも物騒な絵になっているではありませんか。
その訳とは一説によれば、版元は保永堂の企画で歌川広重(安藤広重)と渓斎英泉2人の合作で中山道六十九次を描く運びになっていた。しかし渓斎英泉の絵が広重の東海道五十九次程売れなかったので「広重のような風景中心の絵を描いてほしい」と注文を付けられ、あげく保永堂から仕事を降ろされてしまった。その怒りを盲人の姿を借り「周りは何も分からぬ奴ばかりだ。」と揶揄して描いたという事らしいのです。
佐久らしさ岩村田らしさは一里塚の榎木一本だけで外何も有りません。
彼にとって描きたかった事は岩村田の風景より喧嘩をしている自分たち(盲人)の方だった様です。恐らく、風景に力を入れてない分、登場人物は登場人物は写実ではないかと思われます。杖を振り上げ真っ赤になって怒っているのが恐らく渓斎英泉本人なのでしょう。下の足下にいる2人はお酒も入っています。版元も、そして広重もきっと描かれているはずです。松の下で驚いている振りをして、漁夫の利を狙っているのが広重なのかもしれません。この絵は絵師と版元の 騒動顛末記 岩村田之図 なのです。 (「中山道69次浮世絵「岩村田宿」の現代版陶額を展示中」より)]
千曲川の舟つなぎ石
『木曾街道六拾九次 塩名田』(歌川広重画)(wikipedia-photo)
[江戸時代、塩名田宿付近の千曲川は、流れも急で、洪水のたびに橋が流されていました。さらに、橋の架けなおしには負担も大きかったことから、一時舟渡しも行われましたが、不都合も多く、結局、橋を架ける方式がとられ、幕府は、橋を維持するため、佐久・小県郡内の村々で組合を組織させ、これにあたらせました。
明治に入り、組合での維持管理ができなくなってしまい、新たに船橋会社がつくられました。この会社では、明治6年(1873年)に千曲川に九艘そうの船をつないで、その上に板を架けて橋とする「船橋」方式により渡川を確保しました。
その際、船をつなぎとめるために使われたのが、上部に穴を開けた大きな岩石で「舟つなぎ石」を呼ばれています。
その後、明治25年(1892年)に木橋が架けられたことから、船橋とともに舟つなぎ石はその役割を終え、現在では、船橋時代の苦労を物語る歴史遺産として、千曲川の流れを静かに見つめています。 (「舟つなぎ石 | 佐久市ホームページ」より)]
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」- 「筑摩川・巻之5 – 31」
中沢川板橋
『木曾街道六拾九次 八幡』(歌川広重画)(wikipedia-photo)
中沢川板橋から見た浅間山。
瓜生坂
『木曽街道六十九次・望月』(歌川広重)(wikipedia-photo)
[望月宿は現在の長野県佐久市望月にあたる。平安時代からこの地を収めていた豪族望月氏の姓や、その望月氏が朝廷や幕府に献上していた馬の名産地として蓼科山裾野の「望月の牧」から、「望月」の名が付いたとも言われる。なお、望月氏の由来は、望月の牧からであり、望月の牧の由来は、一族が毎年旧暦8月15日の満月の日(望月)に馬を朝廷や幕府に献上していた為である。 (wikipedia・望月宿より)]
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」- 「望月駅 城光院・巻之5 – 27」
[望月宿の木曽海道を大名行列が通っています、そこの左道が城光院参道で、参道先が城光院になります。また、右ページ街道下に大友(伴)神社が描かれ、街道沿いの川は鹿曲川(かくまがわ)になります。]
[城光院は文明7年(1475年)に真田家とゆかりのある望月城主、望月遠江守光恒が開基となり南浦宗清和尚を招いて開山したと伝えられています。
境内の裏山は望月城となっており、城光院は望月氏代々の菩提寺として庇護されました。
真田十勇士の一人「望月六郎」は、この望月氏の子孫といわれております。
城光院の本尊阿弥陀如来坐像は室町時代初期の作とされ、望月氏の祖とされる善淵王像は江戸中期の安永年間に制作されたもので、本堂は江戸後期の享和年間に再建されたものです。
境内に安置されている石造庚申塔、石造十王像、石造宝篋印塔はいずれも佐久市有形文化財に指定されています。 (「城光院 | 佐久市ホームページ」より)]
笠取峠の松並木・笠取峠一里塚跡
『木曽街道六十九次・芦田』(歌川広重)(wikipedia-photo)
案内板(銅板碑)(Google Map 画像)
[案内板(銅板碑)
「笠取峠の茶屋
中山道芦田宿と長窪(長久保)宿の間、笠取峠にあり、小松屋と称した茶屋の図(木版画)である。
ここより一・七キロメートルほど上がった峠左側、眼下見事に連なる松並木のはるか東方に、煙たなびく浅間山を一望できる所にあった。
峠道を上り下りする人、茶屋で休む人、格好で職業がそれとわかる人々でにぎわっている当時の様子がよくわかる。
茶屋の建立や消滅の年代は不詳であるが、この画は徳川時代末のものと推定される。
平成五年三月
立科町教育委員会 」 (「銅板碑 笠取峠の茶屋 – 紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅」より)]
依田川板橋
『木曽街道六十九次・長久保』(歌川広重)(wikipedia-photo)
[当作品が想定するのは、川に橋の架かる場所です。『岐蘓路安見絵図』(長窪/コマ番号31)から、このような場所を探すと、宿場の西方に2本の川と街道がぶつかる辺りに2つの橋が架かっているのを発見します。同安見絵図には、「依田川、落合川ともいふ。南の谷川は和田山より落、東の谷川は大門峠より落」と注意書きされ、また、前掲名所図会にも、「依田川に大橋小橋十間許あり。南の渓(たにがは)は和田山より落、東は大門嵿より落る」と記されています。おそらく、当作品は、依田川に架かる西側の依田(和田)の板橋を想定したものと思われます。 (「28 信濃国 「長久保」 – 浮世絵に聞く!」より)]
永代人馬施行所
『木曾街道六拾九次 和田』(歌川広重画)(wikipedia-photo)
[峠の途中にある「永代人馬施行所」 (接待茶屋跡)
この施行所は中山道の旅の難儀を助けようと、江戸の豪商かせや与兵衛の寄付金により設けた接待茶屋跡である。文政十一年(1828)に設置され、峠を越える旅人に冬の間、粥と焚き火、牛馬には年中桶一杯の煮麦を施した。明治三年(1870)まで続けられ昭和58年に復元されたものである。
施行所跡を出て、すぐ国道と分かれ紅葉のなかの急坂を上ると、再び国道と合流し広い野原に出る。ここが東の餅屋跡である。中山道最大の難所である和田峠には、東西の峠の力餅を食べさせる茶屋が東に5軒、西に4軒、幕府の補助を受けて設置されていた。 (「中山道最大の難所・和田峠を越える – 日本鋳造工学会 関東支部」より)]