木曽海道六十九次(馬籠峠-小紅の渡し)

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    馬籠峠
    『木曽街道六十九次・馬籠』木曾街道 馬籠驛 峠ヨリ遠望之圖(渓斎英泉)(wikipedia-photo)

    木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」- 「馬籠峠・巻之4 – 10」(馬籠より妻籠にいたる)

    [『木曽路名所図会』(巻之4 – 9)の馬籠では、「岐蘓路」について、「馬籠峠より東木曽路也。贄川まで廿一里が間水南へ流る。桟、川、山、御坂、等古詠多し」と記すのは、同名所図会が京都側から江戸に進むと馬籠が最初の宿場となるからです。英泉作品は、木曽路の出口・馬籠峠を描く意図ですが、前掲名所図会の「馬籠より妻籠にいたる」の視点を反対に妻籠から馬籠に変えて描いたと考えられます。馬籠峠の下に見える馬籠宿や、版によって表現に違いがありますが、遠景の恵那山(場合によっては笠置山)は、実景ではなく、完全な英泉の構想ということになります。ここでは、英泉の絵心と解釈しておきます。険しい峠越えでは、やはり牛が重宝です。 (「44 信濃国 「馬籠」 – 浮世絵に聞く!」より)]

    落合川落合橋
    『木曽街道六十九次・落合』(歌川広重)(wikipedia-photo)

    [十曲峠を背景に木曽名所図会にも描かれた。 落合川に架かる下桁橋。 別名は、落合橋、釜ヶ橋。 橋桁のない美しい橋であったが、しばしば大水で流されたと伝えられる。  (「【下桁橋:落合宿|散策ガイド】岐阜県十七宿美濃中山道散策 …」より)]
    「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」- 「落合橋・巻之4 – 5

    [絵図右ページに釜ヶ橋(落合橋)、左ページ中央左端に落合と記述されています。]

    中津川橋
    『木曽街道六十九次・雨の中津川』(歌川広重)(wikipedia-photo)

    『木曽街道六十九次・晴れの中津川』(歌川広重)(wikipedia-photo)

    [中津川宿は当初、「雨の中津川」と呼ばれる雨の風景が描かれましたが、後の版では「晴れの中津川」が描かれていいます。
    「雨の中津川」は世界に数枚の貴重なもので、連作のなかでも傑作といわれています。
    「晴れの中津川」は、恵那山の姿などから歌川広重が実際に中津川宿を訪れて描いたものといわれ、下の写真(画像リンクストリートビュー)はその場所と言われているところです。
    「晴れの中津川」と呼ばれる一枚には中津川にかかる中津川橋と柳の木が描かれています。かつての中津川橋は、現在橋のある場所よりも50mから100mほど下流にかけられていました。
    当時橋がかけられていたと言われている場所の近くには、浮世絵とちょうど同じように古い柳の木が立っています。  (「浮世絵「木曽海道六拾九次之内 中津川」と柳の木」より)]

    是より西十三峠
    『木曽海道六十九次・大井』(歌川広重)(wikipedia-photo)

    [『木曽路名所図会』(巻之3-63)には、図版「大井驛」があって、宿場の西側の大井橋を渡って、西行坂等の峠道や「伊勢名古屋道」の追分などが描かれています。また、『岐蘓路安見絵図』(大井 p50)には、「大井より大久手迄の間十三峠といふ。坂多し」と記される他、やはり、「名古屋道いせ参宮の人是よりわかるもよし」との注意書きがあります。つまり、大井宿は、西に難所十三峠を控え、下街道(伊勢名古屋道)、秋葉道などの追分もあって、美濃路16宿の中でも最も繁栄していました。なお、同名所図会には、「西行法師塚 大井の宿半里西中野村にあり。五輪石塔婆を建る」、「西行硯池 中野村にあり」とも記されていて、宿場の西側に西行ゆかりの名所ポイントがあることが判ります。
     以上を踏まえると、馬子に引かれた馬上の商人らしき旅人は、「西行硯池」を過ぎ、「西行坂」を上り、進行方向右に「西行法師塚」を望み、「十三峠」に入って、2本の松(一里塚の松か?)の間の中山道を西に行く姿と考えられます。  (「47 美濃国 「大井」 – 浮世絵に聞く!」より)]
    木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」- 「大井駅・巻之3 – 63

    大洞の馬頭観音と石標・中山道二つ岩碑(母衣岩・烏帽子岩)
    『木曽街道六十九次・大久手』(歌川広重)(wikipedia-photo)

    [宿場はこの高札場跡を最後に家並みは途絶え、道路は二つに分かれるので右側に向う。すぐ左側に「小坂の馬頭観音様」二体に、道中の安全を祈ってもらいながら進むと、道路先に小公園らしきものを発見。道路はやや登り坂になっているが、ここに「大湫宿大洞・小坂」の石碑が建っている。ここから見た景色を広重が「木曽海道69次之内 大久手」を画いた場所だろうと推定されている。その先に進むと、大湫の二つ岩なるものがある。一つは母衣岩(ほろいわ)と言う。母衣(ほろ)とは、戦国時代の絵巻物を見ると、馬にまたがる鎧兜の武者の背に、大きな袋状のものを着けているのがあるが、この袋状のものを母衣(ほろ)と言う。背後から弓矢が当らないようにした防御袋である。
    この巨石には、真ん中にスジが入っており、昔の人はこれを女性の性器に見立てた。古来、男女の性器はこれを交合させることにより、新たな生命を生み出す神秘で不思議なものと崇められてきた。この地だけでなく、日本の各地、いや世界の各地で尊崇されてきた。
    街道を進むと、もう一つの巨岩があって烏帽子岩(えぼしいわ)と呼び、これは男性性器(どちらを向いているかは想像にお任せします。)を表わすと言い、これで「二つ岩」とされた。  (「母衣岩(ほろいわ)と烏帽子岩(えぼしいわ)(旧中山道を歩く 228)」より)]
    「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」- 「琵琶峠・巻之3 – 62

    [右ページに「ほろ岩」、「えぼし岩」が描かれています。]

    茶屋ヶ根
    『木曽街道六十九次・細久手』(歌川広重)(wikipedia-photo)

    [茶屋ヶ根
     その名のごとく旅人の休憩所であった。細久手宿 の東入口で眺望のきく絶影地である。
     広重 の版画「細久手宿」もここからスケッチされている。
    北方近くに妙見山、東に霊峰御嶽山、南にアルプス連峰、西に名古屋港の海が輝く。
    細久手長寿クラブ  (「茶屋ヶ根 – Monumento(モニュメント)」より)]

    「木曽海道六拾九次之内 御嶽」モデルの地
    『木曽街道六十九次・御嶽』(歌川広重)(wikipedia-photo)

    [歴史の道  中山道
    安藤広重 「木曽海道六拾九次之内  御嶽 」モデルの地
     江戸時代、浮世絵の世界で名を馳せた人物に安藤広重(1797 ~1858)がいました。その作風は、情緒性を高め静のなかに動を表現する独特の手法で風景画に新境地を開きました。代表作に「東海道五拾三次 (全五十五枚)」のほか、この「木曽海道六拾九次 (全七十一枚)」があり、御嶽宿では当時の庶民の旅で多く利用された「木賃宿」を中心に、囲炉裏を囲んだ旅人たちの和やかな会話が聞こえてきそうな様子を見事に描写しています。そして、作品のモデルとして選んだ場所がこのあたりだといわれています。
    広重の作品のなかに「木賃宿」が登場する例は非常に珍しく、軒下にいる二羽の鶏もまた、作品に描かれることはごく稀です。
    平成十五年度のこの事業は、岐阜県からの補助金を受けています。
    御嵩町  (「歴史の道 中山道 – Monumento(モニュメント)」より)]

    「御妃塚名木大杉(伏見大杉)跡」石碑
    『木曽街道六十九次・伏見』(歌川広重)(wikipedi-photo)

    [当作品の前景部分は、従来の構想作品にあった手法で、街道を手前に曲げ、あるいは端的に切り取って、そこに旅人の様子などを細かく表現するものです。構図の中心にある大杉は、通例、前掲安見絵図に、「名古屋道 犬山へも道有」と記される犬山街道沿いにあった「伏見大杉」を転用したのではと解されています。  (「51 美濃国 「伏見」 – 浮世絵に聞く!」より)]
    [広重は伏見として、犬山街道の中恵土にあった伏見大杉(中恵土大杉)を描いています。残念ながら樹齢千年といわれたこの大杉は昭和九年(1934)の室戸台風で倒れてしまい、今は 御妃塚名木大杉跡碑を残すのみです。この大杉跡碑は犬山街道を進み上恵戸本郷南交差点を越え、左手の美容室TOM先の左手民家前にあります。  (「美濃路」より)]

    今渡の渡し場跡案内板
    『木曽街道六十九次・太田』(歌川広重)(wikipedia-photo)

    [市指定史跡  今渡の渡し場跡
    可史第二〇号 昭和四七年三月二〇日 指定
    今渡の渡し場
     中山道の三大難所の一つ「木曽のかけはし 太田の渡し うすい峠がなくばよい」と詠まれた、現可児市今渡地区 に残る木曽川の渡し場跡です(この対岸の呼称が太田の渡し )。木曽川が出水する度に「船止め」となったので、今渡地区には、旅人のための宿屋や茶屋などが建ち並び、湊町として繁栄したと伝わります。
     明治三四年三月には両岸を渡す鉄索を張り、それに船を滑車でつなぎ、川の流れを利用して対岸へ船を進める「岡田式渡船」となりました。その頃には、渡し賃も無料となっていたようです。乗客がほどよく乗り合わせると出発し、1日に何回も往復しました。夜でも対岸の船頭小屋へ大声で呼び掛けると、船を出してくれたといいます。
     昭和二年二月、このすぐ上流に見る太田橋が完成し、渡し場は廃止されました。
    渡し場の移り変わり
     鎌倉時代に起こった承久の乱の記録によれば、当時の官道である東山道は、この下流にある市内土田地区から木曽川を渡り、「大井戸の渡し」と呼ばれていました。
     江戸時代に入り、この官道は中山道として再整備されました。当時の絵図などから見ると、江戸時代の中頃までは同じ土田地区の渡り付近(土田の渡し)から渡っていたようですが、後期頃からはここ今渡地区へ移されています。
     土田の渡しは、中山道の正式な渡し場ではなくなりましたがその後も続き、昭和五年頃に岡田式渡船を採用し、昭和三五年頃に廃止されました。
    平成一七年九月建替
    可児市教育委員会  (「市指定史跡 今渡の渡し場跡 – 案内板データベース – Monumento」より)]

    犬山城
    『木曽街道六十九次・鵜沼』(渓斎英泉)(wikipedia-photo)

    『木曽海道六十九次・加納』(歌川広重)(wikipedia-photo)

    [加納宿東番所付近から加納城を南東方向に見る景色に思えます。]