本間寄木美術館

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本間寄木美術館
[営業時間:9:00~17:00(最終入館時間 16:30)
休業日:年末年始休業有 (※他、臨時休業あり)
足柄下郡箱根町湯本84
TEL:0460-85-5646  (「寄木細工のお店 – 箱根町観光協会」より)]

[箱根寄木細工 本間木工所・本間寄木美術館では、伝統工芸士・本間昇が長い年月をかけて収集しました逸品の寄木細工や木象嵌を展示しております。
箱根寄木細工は、日本で唯一の産地である箱根・小田原地方で今まで技術が継承されてきましたが、一時は、衰退の時代もございました。
そのため、江戸時代からの歴史ある貴重な寄木細工の技術を継承するため、また、作品の散逸を防ぐために収集をしてまいりました。
展示を行うことで、歴史ある寄木細工の匠の技術の素晴らしさや、美しさをみなさまに是非ご覧いただきたいと思っております。  (「ごあいさつ・概要 | 寄木美術館について | 箱根寄木細工」より)]

[江戸時代後期、当時の宿場町であった畑宿で寄木細工は生まれました。 畑宿の石川仁兵衛が、木の種類が豊富な箱根の山の特性に着目し、色や木目の違うさまざまな木を寄せ合わせてお盆や箱を作ったのが始まりだとされています。
弘治2年(1556年) 箱根の畑宿で挽物細工の生産がされていた。
寛政3年(1791年) 「東海道名所図会」出版。箱根細工が湯本茶屋の名品として紹介される。
弘化年間(1845~48年) 畑宿の石川仁兵衛が、寄木細工の技法を考案したと伝わる。
明治25年(1892年) 湯本茶屋の白川洗石が、ミシン挽き木象嵌の技法を完成させる。
明治27年(1894年) 湯本の大川隆次朗が、秘密箱を考案する。
明治30年(1897年) この頃に小田原の山中常太郎が、組木細工を考案する。  (「寄木細工の歴史 – 箱根町観光協会」より)]

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「箱根 湯本 挽物店 5巻 54p(右ページに説明文)」

[寛政9年(1797年)に刊行された東海道名所図会(全6冊の5冊目)には「箱根名品挽物細工 街道湯本村にあり花美なる諸品を細工して色々彩り塗て店前に飾る又雛の芥子(かいし、がいし、からし)人形の細工をしおらしくして纔(わずか)方寸の箱に百も二百も入れる也。湯本伊豆屋の店諸品多し又前栽に流しの 枝左右に八九間も伸ばしたる梅の名木あり。」の記載がある。また与謝蕪村の「隅々に残る寒さやうめの花」の句なども添えている。左頁の絵には「箱根湯本挽物店」として伊豆屋の様子が描かれている。挽物(ロクロ製)の芥子人形も存在したことが分かる。箱根の芥子人形は、3.3cm四方の箱に「百も二百も」入るというのだから極小さなものだった。それは長い旅の道中を持ち帰っても嵩張らず、近在の人たちに土産として配るのに適したものだったのかもしれない。
オランダシーボルトもこうした芥子人形とされる小人形を蒐集して、持ち帰っており、「御芥子人形」と書かれたその包紙とともにオランダのライデン国立民族学博物館に保存されている。これはごく小さい衣装人形のように見える。
この「御芥子人形」が「こけし」の語源という説があり、「こけし」は「御芥子」からの転化、あるいは木で作った芥子人形「木芥子」からの転化などの説がある。
また、東北の遠刈田や土湯の木地師達が伊勢、金毘羅参りに出かけたことは記録に残っているが、その折に箱根の伊豆屋などでこうした挽物の芥子人形を見たことがこけし製作の契機となったとする説がある。  (「芥子人形 – Kokeshi Wiki」より)]

本間寄木美術館入り口前のカメラです。