東海道五十三次浮世絵(鈴鹿峠・土山宿-石部宿)

土山宿東海道絵図(土山宿)
『東海道五十三次保永堂版・土山-春之雨』(wikipedia-photo)

[現在の滋賀県甲賀市にあたる。京都から江戸を目指すと最初の大きな峠が鈴鹿峠であった。「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨がふる」と馬子唄に詠われた土山は、雨の多い場所として知られ、画面右側に描かれた田村川の激しい水流は、そのことを物語っている。《庄野 白雨》のそれとは違い、雨を表す線が無数に交差し、雨足の強さを強調している。降りしきる雨の中、田村川に架かった橋(海道橋(旧田村橋))を大名行列の一行が静かに渡り始めている。  (「東海道五拾三次之内 土山 春之雨 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

万人講灯籠 常夜燈

[江戸時代の中頃、四国の金毘羅神社の常夜燈として鈴鹿峠に建てられ、東海道を往来する行商人信者が常夜燈に火を燈し、鈴鹿峠より伊勢の海遥か彼方四国金毘羅神社に航海と道中の安全を祈願されていました。
重さ38t高さ5m44cmの臣大な石燈籠は、山中村高幡山天ヶ谷より運び出され、地元山中村をはじめ坂下宿、甲賀谷の人達、三千人の奉仕によって出来上がったものと言われています。
現在は、国道1号線鈴鹿トンネルの上で、往来する車や人々の交通安全を見守っています。  (「万人講常夜燈 | 甲賀市観光ガイド」より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)すゞか山雨中之図』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 五十 五十三次 𡈽山」(wikipedia-photo)

『五十三次名所図会 五十 土山』(国立国会図書館デジタルコレクション)

[水面のところどころから岩が顔を出している川の川沿いを大名行列の一行と思われる人々が歩いています。表題には鈴鹿川(すずかがわ)とありますが、画中に描かれているのは田村川(たむらがわ)と思われます。川の向こう岸には、うっそうと木が茂る中に田村神社の鳥居と社殿が見えます。  (「展示資料解説 | 藤沢市藤澤浮世絵館」より)]

伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [画]」 – 「田村大明神社 2巻 25p

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「土山 田村明神社 2巻 46p

「伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [画]」 – 「土山 2巻 22p

「伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [画]」 – 「いさの川 2巻 21p

[いさの川(伊佐野川)は野洲川のことで、野洲川左岸河岸段丘を利用して築かれている伊佐野城に因む、野洲川の別称と思われます。右ページ上にいさの川、下に支流となるいな川(稲川)が描かれ、土橋右端に水口境の標柱が描かれ、左ページに「山口志兵衛重成清泉碑」、遠景に瀧樹大明神が描かれています。]

水口宿東海道絵図(水口宿)
「伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [画]」 – 「岩神 2巻 19p

[『祠なくて岩を祭る。この近村の人、生まれし子をこの岩の前に抱き出て、旅人に請うてその子の名を定むをな俗(ならわし)とせり。この他、大石奇岩有り。里人に問うべし。右の方に川あり。水上は土山の奥より出て横田川へ流れ入る。』
岩神の近隣に住む村人は子が生まれると、母親か親族の者が岩神の前に子を抱いて立ち、東海道を往来する見ず知らずの旅人にお願いして名前を付けてもらっていたのだという。どういった所以でそんなことをするようになったかまでは書かれていないが、何とも奇妙な風習である。  (「岩神 – 街道の行く先へ」より)]

『東海道五十三次保永堂版・水口-名物干瓢』(wikipedia-photo)

[現在の滋賀県甲賀市にあたる。水口の名物である干瓢作りの模様が描かれる。干瓢は夕顔の実の果肉を細く剥き、天日に干して作られる。左側には筵の上に座り一心不乱に包丁を入れる女性の姿が見える。奥の赤子を背負う娘は次に切る夕顔を持ち、手前の娘は細く剥かれた夕顔の実を丁寧に干している。右奥にも立てられた葦簀に夕顔の実を干す女性がおり、こうした女性たちの勤勉な姿から山村のほのぼのとした日常を垣間みることができる。  (「東海道五拾三次之内 水口 名物干瓢 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)水口』(wikipedia-photo)

「伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [画]」 – 「水口 2巻 18p

[図会は水口宿東見付から西方向を見た絵で、遠景左に大宮(水口神社)、右に大とく寺(大徳寺)、大岡寺が描かれています。]

「伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [画]」 – 「横田川 2巻 17p

[東海道横田渡
 鈴鹿山脈 に源を発する野洲川 は、このあたりで「横田川」と呼ばれてきました。伊勢参宮 や東国へ向かう旅人は、この川を渡らねばならず、室町時代の史料にも「横田河橋」の名が見えています。江戸時代に入り東海道が整備され、当所は東海道十三渡 のひとつとして重視され、軍事的な意味からも幕府の管轄下に置かれました。 そのため、他の「渡」と同じく通年の架橋は許されず、地元泉村に「渡」の公役を命じ、賃銭を徴収してその維持に当たらせました。これによると、三月から九月の間は四艘の船による船渡しとし、十月から翌二月までの間は、流路の部分に土橋を架けて通行させたようです。野洲川と支流の杣川 が合流する当地は、水流も激しく、また流れの中には巨石も顔を見せ、道中の難所に数えられました。「渡」の景観は、往時のガイドブックである名所図会や絵図にも多数描かれており、旅人でおおいに賑わいました。  (「東海道横田渡 – Monumento(モニュメント)」より]

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 五十一 五十三次 水口 平松山美松」(wikipedia-photo)

『五十三次名所図会 五十一 水口』 「名松平松山の麓」(wikipedia-photo)

「東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「平松山美松 2巻 40p

[平松のウツクシマツ自生地は東海道五十三次の水口宿と石部宿の中間、石部宿寄りの街道沿いにほど近く、東海道を往来する人々にも松の名所として古くより知られており、その優美な姿から「美松」「美し松」と呼ばれて大切にされ、1921年(大正10年)3月3日に国の天然記念物に指定された。
ウツクシマツはアカマツの変種で、葉型や樹皮は通常のアカマツとほぼ同じであるが、根元に近い位置から複数本に分かれた幹が上方へ高く伸び、上部の樹冠全体が傘を広げたように見える珍しい樹形をしている。高さは約7 – 10メートル、幹囲は2.5 – 2.8メートルほどのものが大半を占めており、中には樹高15メートルに達する個体もある。
平松のウツクシマツの樹形には、いくつかのバリエーションがあり、湖南市教育委員会が作成した現地解説板によれば、
1.扇型(上方山形) 根元から約1.5 – 2メートル付近で複数の幹に分岐し扇状になり、樹冠上部が山形になっているもの。
2.扇形(上方やや円形) 1.と同型で樹冠上部が丸みがかったもの。
3.傘型 地表付近から幹が多数分岐し、樹冠が傘状に広がったもの。
4.ホウキ型 幹の分岐は3.と同じであるが、樹冠の広がりが狭いため全体的に箒状に見えるもの。
以上の4タイプに分類されている。
江戸時代後期の1797年(寛政9年)に刊行された『伊勢参宮名所図会 』(石部駅 2巻 15p)、および1815年(文化12年)刊行の『近江名所図会』(200017488_00046.jpg)には、「平松村 此村の右の方の山に美し松といふあり。一山凡二町餘の間不殘(あいだのこらず)雌松にて、其生ふる形一樹にして根本より數十幹を出す。甚奇観なり。」と記され、東海道沿いの名所として知られていた様子が分かる。
また、歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』の水口宿で描かれた浮世絵の2作品に「うつくし松」は描かれており、画中に「平松山美松」、「名松平松山の麓」の副題が添えられており、特に「平松山美松」では複数の幹が放射状に分岐する特徴的なウツクシマツの樹形が描かれている。  (wikipedia・平松のウツクシマツ自生地より)]

石部宿東海道絵図(石部宿)
伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [画]」 – 「夏見の里 2巻 16p

[店先に「心太(ところてん)」の看板が見えますが、これがこの地の名物でした。
『方丈記に 行く水の流れは元の水にあらずといへども この木偶の行衛は元の水にして しかも昼夜をすてずただ過ぎにすぐる物と枕草子にいひし類とやいわん』
『夏見の里』についの説明には、「この所桜川の名酒、また四季とともに心太を売る茶店多し、その家ごとにはしり水をしかけ、木偶(にんぎょう)をめぐらして旅人の目を悦ばしむ」もありました。
走り水でクルクル回る木偶を面白がって見ている旅人たちが描かれていますね。店の方が「ところてん」を皿に押し出しているのも見えます。刀を差した二人は、お酒を飲んでいます。笑顔が良いですね。きっと名酒の “桜川”なんでしょう !!
左側上部にある「二本杉」、旅人二人が坂道を登っています。その先には二本杉。二本杉とも呼ばれていたが、一本は安永二年(1773年)の台風で倒れました。残った一本は、親しみを込めて「弘法杉」の名で大切にされています。「弘法杉」のいわれは、弘法さんがこの地で『杉の箸』を食事の時に使い、突き刺した箸から芽が出て大木となったと伝えられています。樹高約26m、周囲6m。  (「「289」夏見の里 – 甲賀流雨蛙 – FC2」より)]

「伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [画]」 – 「石部驛 2巻 15p

[右ページに吉姫明神、左ページ下に吉ひこ明神が描かれ、その上に平まつ村、美し松が描かれています。]

『東海道五十三次保永堂版・石部-目川ノ里』(wikipedia-photo)
(東京富士美術館拡大画像リンク)

[現在の滋賀県湖南市にあたる。宿場と宿場の間にある休憩所を立場と呼び、そこには名物を出す店があった。本図にも立場の茶屋の様子が描かれ、店の暖簾には「いせや」の文字が見える。『東海道名所図会』には目川にある青菜を炊き込んだ菜飯と田楽豆腐が名物の「伊勢屋」(名所図会-目川)が紹介されており、広重はそれをそのまま取り上げている。店には活気があり、前を通る一行の中の一人の男性が、前を行く女性を呼び止める姿がいかにも滑稽である。  (「東海道五拾三次之内 石部 目川ノ里 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「目川田楽茶屋 2巻 35p

「伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [画]」 – 「目川 2巻 13p

旧「和中散本舗」大角家、南側(左)の敷地には街道に面して切妻造の主屋、その左に表門が建ち、北側(南)の敷地には隠居所、馬繋、薬師堂が建つ

[旧和中散本舗(わちゅうさんほんぽ)は、滋賀県栗東市六地蔵にある、江戸時代以来、胃薬「和中散」を製造販売していた旧家である。「旧和中散本舗」として国の史跡に指定されている(1949年7月13日指定)。また、主屋、正門、隠居所の建造物3棟が「大角家(おおすみけ)住宅」として国の重要文化財に(1954年3月20日指定)、庭園が「大角氏庭園」として国の名勝に(2001年1月29日指定)、それぞれ指定されている。旧和中散本舗が所在する六地蔵は、東海道の草津宿と石部宿の中間に位置する間の宿(あいのしゅく)であった。当地には「和中散」という胃薬を販売する店舗が5軒存在したが、なかでも大角家は「和中散本舗」を名乗り、本陣を兼ね、『東海道名所図会』(梅木)にも描かれた著名な店であった。大角家は系図によれば、慶長元年(1596年)、300メートルほど東北の旧地から現在地に移ってきたもので、屋号を「是斎屋」(ぜさいや)と称し、当主は代々弥右衛門を名乗った。慶長16年(1611年)、当地を訪れた徳川家康が腹痛を訴えたところ、典医が「和中散」を勧め、たちどころに快復したとの伝えがある。  (wikipedia・旧和中散本舗より)]

「東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「梅木「是斎屋」(ぜさいや) 2巻 36P

「伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [画]」 -「梅の木 2巻 14p

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)石部』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 五十二 五十三次 石部」(wikipedia-photo)

『五十三次名所図会 五十二 石部 旅舎泊客』
[旅籠(はたご)の1階から2階にかけての内部の様子を、縦の構図を生かして描いています。それぞれの部屋で思い思いに過ごす宿泊客や、旅籠で働く人々の姿が見られます。石部は、東海道を京から出発して1日目の宿泊地とすることが多く、多くの旅籠が軒を連ね繁盛していました。  (「五十三次名所図会 五十二 石部 旅舎泊客(竪絵東海道) 歌川 …」より)]

        「東海道五十三次浮世絵(桑名宿-坂下宿・鈴鹿峠)