東海道五十三次浮世絵(御油宿-宮宿)

御油宿東海道絵図(御油宿)
『東海道五十三次保永堂版・御油-旅人留女』(wikipedia-photo)
[現在の愛知県豊川市にあたる。御油の宿では日暮れになると「留女」と呼ばれた女たちの旅籠への客引きが盛んで、画中のような光景も大げさではなかった。『東海道中膝栗毛』には「両がはより出くる留女、いずれもめんをかぶりたるごとくぬりたてるが…」とあるが、その情景そのままの図といえる。手前の男は風呂敷を引っ張られ苦しむ顔がいかにも滑稽で、後ろの男も袖を引っ張られ困惑している様子が窺える。画面右の旅籠の中の様子も面白く、留女に観念したのか、草鞋を脱ぐ旅客に足洗い用の盥を差し出す老女も見える。  (「東海道五拾三次之内 御油 旅人留女 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

[御油と赤坂の両宿の間は東海道の宿駅間の距離はわずか16 町(約1.7キロ)しかありません。これは問屋場の間の距離なので、棒鼻(宿場町の入り口)間の距離はもっと短いものでした。
目と鼻の先といってもいい距離に、似た規模の宿場が位置していましたので、客の争奪戦はたいへん熾烈だったといわれています。「御油」で留女による激しい客引きがあったのは、宿場間の激しい競争を反映したものかもしれません。  (「御油・赤坂(広重『東海道五十三次』18) – 気ままに江戸 …」より)]

天然記念物・御油の松並木の南端でカメラ方向右に碑があります。

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)御油』(wikipedia-photo)
[御油宿東見附、音羽川御油橋東側の画。]

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 丗六 五十三次 御油 古街道本野ヶ原」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)御油』 「此ゆふべ 櫛やけづらむ 妹が髪 あけ油てふ 宿につく夜は 真米垣児春」(commons.wikimedia)
[赤坂宿東見附、天王川一ノ橋西側の画。]

『五十三次名所図会 丗六 御油』、本野か原 本坂ごへ(commons.wikimedia)

[本坂通の御油から豊川にかけての一帯は、『東鑑』などによると「本野原」(ほんのはら/もとのはら)と呼ばれた平原で、『東関紀行』によると、当時一帯は笹原になっており、その中を通る本坂通沿いには北条泰時が道標として植えさせた柳の木が「陰とたのむほどはなけれども、かつがつ、まず道のしるべとなる」ほどに育っていた。本野原の柳の道標のことは、『東海道名所図会』に紹介されており、同図や『五十三次名所図会』(上画)に描かれている。  (wikipedia・本坂通より)]
『東海道名所図会』 – 本野原富士(「東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「3巻 42p」)

本坂通(姫街道)
[姫街道は、見付宿から御油宿まで、浜名湖の北岸を迂回する東海道の脇往還です。
現在は「姫街道」という名前で親しまれていますが、この名前で呼び始めたのは、幕末ごろからといわれています。
江戸時代には、正式には「本坂通」と呼ばれていました。
当時は安間新田村(東区安新町)あるいは浜松宿(中区連尺交差点)で東海道と分岐し、浜名湖北岸を通って本坂峠を越え、御油宿あるいは吉田宿(豊橋)で東海道と合流していました。
本坂通には、市野宿、気賀宿、三ヶ日宿、嵩山宿が置かれました。沿道には一里塚が配され、市野宿の西や三方原台地上には松並木が続いていました。
気賀宿の東端には気賀関所が置かれ、新居関所と同じく、「入り鉄砲と出女」の取り締まりが厳しく行われました。
本坂通(姫街道)の道筋

    (「文化財情報vol.13 – 浜松市」より)]

赤阪宿東海道絵図(赤阪宿)
『東海道五十三次保永堂版・赤阪-旅舎招婦ノ図』(wikipedia-photo)

[現在の愛知県豊川市にあたる。旅籠屋の室内を上から覗き込むような構図。左側の部屋では横たわり煙管をふかす男性のもとへ女中が2膳分の食事を運び入れ、その横では按摩師が懸命に客を口説いている。右側の部屋には飯盛女と呼ばれる招婦たちが念入りに化粧を施している。奥の階段にも下りてくる人の姿が見え、こうした人々の動きからこの旅籠屋の活況が伝わってくる。中庭に配置された蘇鉄と石灯籠も本図に一つの興趣を添えている。  (「東海道五拾三次之内 赤阪 旅舎招婦ノ図 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

元旅籠大橋屋前のカメラです。

[大橋屋(おおはしや)は、愛知県豊川市赤坂町にあった旅籠。2015年3月15日まで営業を行い、東海道五十三次の宿場町のうちで、江戸時代の建物のまま営業する最後の旅籠だった。江戸時代の東海道赤坂宿の佇まいを今に伝える老舗で、歌川広重の「東海道五十三次・赤坂宿舎招婦図」のモデルになっていた。松尾芭蕉が宿泊し、俳句を詠んだともいわれる。創業は江戸中期とされる。宿中央の屋根の柱に、創業以来中身を見たことがないという米俵がある。2階へは吹き抜けの部屋から手すりのない黒光りの階段を上る。2015年3月、創業366年目にして、旅籠の歴史に幕を降ろした。同年9月に豊川市に寄贈され、2016年5月より日を限って一般公開されている。  (wikipedia・大橋屋より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)赤坂』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 丗七 五十三次 赤坂」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)赤坂』 「双六とともに ふり出す 髭奴 名を赤坂の 宿にとゞめて 鳴門静丸」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 丗七 赤坂』、「縄手道にて弥次郎 北八を狐とおもいて てふちゃく(打擲)する」。『東海道中膝栗毛』を画題とした錦絵で、御油から赤坂へと続く畦道で弥次郎が喜多八を化け狐だと思って叩こうとする情景を描いたもの。(commons.wikimedia)

藤川宿東海道絵図(藤川宿)
『東海道五十三次保永堂版・藤川-棒鼻ノ図』(wikipedia-photo)

[現在の愛知県岡崎市にあたる。街道と宿場の境界には棒示杭が立てられており、棒鼻とは宿場の出入口のこと。本図では「八朔御馬進献」の行列を宿場の役人が入口まで出迎える様子が描かれる。八朔とは8月1日。幕府はこの日、朝廷に御馬を献上することを重要な儀式としていた。行列の中の御幣を立てた馬が献上される御馬である。広重はこの「八朔御馬進献」に同行し、それが《東海道五拾三次》シリーズにつながったともいわれている。  (「東海道五拾三次之内 藤川 棒鼻ノ図 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

藤川宿東棒鼻跡前のカメラです。

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)藤川 山中宿商家』(wikipedia-photo)
[東棒端跡で藤川宿を出て東進、中世に山中郷と称した地域へ。山中郷は現在の岡崎市舞木町・羽栗町・山綱町・本宿町・池金町・鉢地町にあたり、中世には宿駅があったところで、東海道五十三次が整備された江戸時代にも山中宿の名が残っていた。室町中期の紀行文「覧富士記」に「山中の宿にて、御ひるまのほど、賑はゝしさもかぎりなし」と書かれ、当時の賑わいがうかがい知れよう。広重は行書版「東海道五十三次之内藤川」に「山中宿商家」の副題を付け、坂道の東海道筋に山中名物の麻縄や網袋類を商う店を浮世絵に描く。舞木町山中町の旧東海道沿いが旧山中宿。藤川宿一帯に自生するカラムシで細工した早縄かんざしや麻縄、網袋等を製造販売し生計を立てる家が多くあった。浮世絵の左に描かれる商家は「山中名物 麻縄網袋類」や「仙女香」の看板を掲げる。仙女香とは、江戸京橋南伝馬の坂本家が製造販売していた白粉(おしろい)。  (「山中郷 舞木と山中宿 – 街道の行く先へ」より)]

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 丗八 五十三次 藤川」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)藤川』 「行過る 旅人とめて 宿引の 袖にまつはる ふぢ川の駅 常盤園繁窮」(commons.wikimedia)

画奥に描かれた宮路山は古代からの東海道(古道)の宮路越えの道中にあった。室町期に新たな東海道が作られたため宮路山を通る必要は無くなった。(commons.wikimedia)
[近世の東海道が整備される以前には、宮路山を通る「宮路越え」として利用されていたとされる古道があります。宮路山は、万葉集十六夜日記などにその名が登場し、当時は、多くの方がこの古道を利用していたことがうかがわれます。しかし、近世の東海道が整備されてからは、宮路越えはあまり利用されなくなったといわれています。
 また、山頂付近からは、三河湾や東三河の平野部を一望でき、よく晴れた日に遠く富士山を望むことができます。  (「宮路山の古道と山頂付近から見える富士山 – 豊川市」より)]

[藤川宿の東のはずれにある山中村(やまなかむら)の風景を描いています。画面手前の馬に乗った旅人がいる辺りで空間を区切ることにより、高い位置から低い位置へとつながる山道の傾斜を表現しています。
画面奥には雪深い山間部の街道が続き、その両側には店が立ち並んでいる様子が描かれています。山中村は、麻の一種である苧(からむし)を用いて作った道具類が名物として知られていました。  (「詳細 – 資料検索 | 電子博物館・みゆネットふじさわ」より)]

岡崎宿東海道絵図(岡崎宿)
『東海道五十三次保永堂版・岡崎-矢矧之橋』(wikipedia-photo)

[現在の愛知県岡崎市にあたる。眼前を流れる矢矧川に架けられた矢作橋は、幕府によって架けられた東海道随一の大橋であった。東海道の名所をまとめた書籍である『東海道名所図会』には「長さ二百八間(約370メートル)…東海第一の長橋なり」とある。広重はこの大橋に大名行列の一行をずらりと並ばせることで、その長さをより一層強調したかったのであろう。対岸に姿を見せているのが、徳川家康が生誕したとされる岡崎城天守閣である。  (「東海道五拾三次之内 岡崎 矢矧之橋 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)岡崎 矢はぎのはし』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 丗九 五十三次 岡崎 矢はぎ川」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)岡崎 矢はぎのはし』 「宿毎に 夕化粧して 客をまつ こころもせはし ぢょぢょのぢょん女郎 千歳松彦」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 丗九 岡崎』、「矢はき川 やはきのはし」(commons.wikimedia)

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「矢矧橋 3巻 36p

岡崎宿 3巻 38p

[岡崎宿の鍵の手の様子]

岡崎二十七曲り(「二十七曲りは巡ったが… – BIGLOBE」より)

池鯉鮒宿東海道絵図(池鯉鮒宿)
『東海道五十三次保永堂版・池鯉鮒-首夏馬市』(wikipedia-photo)

[現在の愛知県知立市にあたる。首夏、すなわち夏の初めの馬市の様子を描いている。ここでは毎年4月の末から5月の頭にかけて馬市が開かれていた。野原に立つ杭に多くの馬がつながれており、今まさに馬を連れてきた者の姿も見える。中央の一本松の下では馬喰と呼ばれる馬の仲買人による取引が行われており、そのため、この松は談合松と呼ばれた。様々なポーズをした馬の姿、風になびく草原の描写は動きに満ち、観る者を飽きさせない。  (「東海道五拾三次之内 池鯉鮒 首夏馬市 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「池鯉鮒駅・3巻 30p」、「池鯉鮒馬市解説・3巻 29p

[池鯉鮒宿(現愛知県知立市)の東の野原で開かれた馬市のようすを描く。この野原は「引馬野(ひくまの)」の地名でもよばれていて、本文によれば、毎年 4 月 25 日 から 5 月 5 日まで、400 ~ 500 頭もの馬と、馬口労(ばくろう)や牧養(うまかい)らが集まり、競りが行われたらしい。「馬の値を極むるを談合松といふ」とあるとおり、野にある松の木を目印に、ここに馬をつないで値段交渉をしたようだ。絵には、馬をつなぐ松の木と、そのそばに集まった博労たちが、袖の中に互いの腕をいれて、値段の交渉をしているようすが描かれている。これについては、文政年間に星橘楼長雄による狂歌集『秋葉みちの記』に、「池鯉鮒の駅」として「ふところへこそくるやうに手をいれてちりふのさとにつとふ馬市」と詠んだ描写もある(知立市史編纂. 委員会編、1976)によれば、鎌倉時代あたりから行われていたようである。江戸時代になると、『東海道名所記』万治 4 年( 1661 )頃や、『富士一覧記』(17世紀末~ 18世紀初め頃)などにも描写がみられ、それらには、甲斐信濃のあたりからも馬が集められていたこと、商人や遊女、傀儡子(くぐつ)までもが集まって、たいへんな賑わいであったことが記されている。この絵では、右側に縁台と竈を据えただけの簡単な 茶店が描かれている。竈にかかっている釜からのぞいているのは、田楽の串だろうか。店の主人らしき男が、ひょうたんの酒を縁台の客に注いでいる。なお、この縁台に腰掛ける男たちは、真ん中の男は両 足を上げているものの、両端のふたりは片足だけ草 鞋を脱ぎ、もう片方はそのまま下ろしている。こうしたスタイルをいずれも「あぐら」と呼んでいたようすは、『東海道中膝栗毛』の描写にもうかがえる。 茶店の右には、茣蓙を敷いた物売りの姿。近隣の農家から売りに来ているのであろうか、篭いっぱいの品を広げて売っている。これに庖丁をあてている客のようすからみると、果実のようである。池鯉鮒の馬市は、明治の末頃まで開かれていた。(山本)  (「さまざまな生業」より)]

旧東海道 知立松並木

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)池鯉鮒』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 四十 五十三次 地鯉鮒」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)池鯉鮒』 「春風に 池の氷の とけそめて 刎出る鯉や 鮒も花なる 狂歌亭真似言」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 四十 池鯉鮒』、「「八つ橋むら 杜若の古せき」、八つ橋むらは『伊勢物語』で在原業平が「かきつばた」の5字を用いた和歌を詠んだことで知られる土地。当時の情景を偲ぶ旅人を著した錦絵。画中の松は「根上がり松」として知られる。(commons.wikimedia)

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「八橋杜若古蹟 3巻 32p

[『池鯉鮒より八町許東の方、牛田村の松林に石標あり。是より左に入る事、七町許、こゝに一堆の丘山ありて、古松六、七株、其側に凹なる池の形の芝生あり。是むかし杜若のありし趾といふ。北の方に遇妻川の流あり。こゝに土橋をわたす。これを八橋に渡せし流といふ。』( 3巻 31p )と説明書きがありますから、中央右の丘の「凹なる池の形」が、その「杜若のありし趾」ということになるようです。ただし、都て此邊田畑にして、八橋燕子花の俤もなし。やはり、田畑になってしまっていて、「八橋燕子花」の俤は、なかったようです。  (「知立市歴史民俗資料館へ(後)描かれた八橋 | 地図を見ながら」より)]

知立神社 3巻 29p

[図会左下に東海道、参道前両サイドに常夜燈が描かれ、参道終点に多宝塔、その左に知立神社が描かれています。多宝塔は国・重要文化財(知立神社多宝塔(ちりゅうじんじゃたほうとう) – 愛知県)となっています。]

鳴海宿東海道絵図(鳴海宿)

『尾張名所図会』 – 桶狭間古戦場(「尾張名所図会. 前編 / 岡田啓,野口道直 撰 ; 小田切忠近 図画」 – 「 5巻 – 81p 」より)

『東海道五十三次保永堂版・鳴海-名物有松絞』(wikipedia-photo)

[現在の愛知県名古屋市緑区にあたる。鳴海の名物であり地場産業でもあった有松絞りに因んだ図。街道沿いに建つ2軒の店はいずれも有松絞りを商う店である。2階建ての立派な蔵造りの店構えはこの村がいかに有松絞りで潤っていたかを窺わせる。手前の店を見ると客人が腰をかけ店主と何やら話にふけっており、暖簾には広重の「ヒロ」の組み合わせた家紋があしらわれている。2組の旅人たちはこうした店には目もくれず歩みを進めている。  (「東海道五拾三次之内 鳴海 名物有松絞 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

鳴海宿笠寺一里塚前のカメラです。

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)鳴海 名物有松絞り店』(wikipedia-photo)

『尾張名所図会』 – 有松絞店 竹田庄九郎(「尾張名所図会. 前編 / 岡田啓,野口道直 撰 ; 小田切忠近 図画」 – 「 6巻 – 8p 」より)

[一般によく知られている有松・鳴海絞りの発祥は、慶長年間(1596 – 1615年)、竹田庄九郎なる人物が、手ぬぐいに「豆しぼり」をつくり販売したのがはじまりとされる。庄九郎は、これを「九九利絞(くくりしぼり)」と呼んだ。1610年(慶長15年)から1614年(慶長19年)にかけて行われた名古屋城の築城(天下普請)のために、九州・豊後から来ていた人々の着用していた絞り染め衣装を見て、当時生産が始められていた三河木綿あるいは知多木綿に絞り染めを施した手ぬぐいを、街道を行きかう人々に土産として売ったという。有松・鳴海絞会館には、有松絞りの開祖として竹田庄九郎の功績をたたえ、記念碑が建立されている。
有松地域は、江戸時代のはじめには松林が生い茂る人家の無い荒野であったため、街道に盗賊が出没し危険な地域となっていた。尾張藩は、この地域を通る東海道の旅人の安全と保護のため付近に集落を設ける必要性から、1608年(慶長13年)に知多郡一帯に移住を奨励する触書を発布した。有松の中心地の道路沿い数百メートルの範囲を対象とし、移住者にはいっさいの夫役を免じて、免租地の特権を与えると布告したものである。こうして、東海道沿いに新しい集落として有松が開かれた。竹田庄九郎は、尾張藩の奨励に応じた最初に移住した8人のうちの1人で、知多郡の阿久比庄(あぐいのしょう)から移ってきた農民であったという。
竹田庄九郎をはじめ移住者たちは、はじめ東海道沿いにささやかな萱葺の家を建てて茶屋を開業したものの、鳴海宿までの距離が近かったことから、茶店を出したり草鞋を売るようなありきたりな商売では間の宿としての発展も望めなかった。しかし、有松地域は丘陵地帯であるため耕作に適する土地ではなく、移住者の暮らしぶりは困窮した。1625年(寛永2年)における有松村の石高はわずか14石5斗余であったという。そこで考案されたのが有松絞りであった。  (wikipedia・有松・鳴海絞りより)]

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 四十一 五十三次 鳴海 名産絞り店」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)鳴海』 「誰がぬひし 梅の笠寺 春さめに 旅うぐひすの 着てや行らん 果報坊寝待」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 四十一 鳴海』、「名産有松しぼり店 」(commons.wikimedia)

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「有松絞 3巻 25p

[尾州有松(現名古屋市緑区有松町) の名産「有松絞」の作業風景を描く。この絵には製品になるまでの作業風景を取り上げている。草屋根の家の窓から見える 3 人は、左の女性が巻き上げという絞加工の作業中、右端は絞模様をつけるために平縫いしているところであろう。染色工程はここには示されていないが、右端では染め上がった細い布を天日干ししている。中剃りの髪型なので、まだ子どもであろう。家内工業として、女性や子供が労働に従事しているようすがうかがえる。  (「さまざまな生業」より)]

『尾張名所図会』 – 文章嶺(有松天満宮)(「尾張名所図会. 前編 / 岡田啓,野口道直 撰 ; 小田切忠近 図画」 – 「 6巻 – 6p 」より)

[図会左ページ下に祇園寺、右ページ上に文章嶺(有松天満宮)が描かれています。]
[その昔、有松天満社は現在の祗園寺に鎮座していました。天満社がかつて鎮座していた祗園寺の歴史は江戸時代中期にまでさかのぼります。宝暦5年(1755年)、鳴海にあった猿堂寺を有松に移して「祗園寺」に改号した事から、有松の祗園寺の歴史が始まりました。天満社がいつから祗園寺の境内にあったのかは定かではありませんが、天満社は祗園寺の鎮守として存在していました。寛政年間(1789年)、祗園寺4世文章卍瑞により、祗園寺の後方にある山(天満社の現在の鎮座地)に数千人から捧げられた詩歌文章等を埋納し、天満社を遷座しました。この事から、有松天満社の鎮座する山は「文章嶺(ぶんしょうれい)」または「フミノミネ」と称されるようになりました。  (「有松天満社のあゆみ」より)]

『尾張名所図会』 – 如意寺 成海八幡宮(「尾張名所図会. 前編 / 岡田啓,野口道直 撰 ; 小田切忠近 図画」 – 「 5巻 – 70p 」より)

[図会左下に成海八幡宮、遠景右上に如意寺が描かれています。成海八幡宮周囲の道は常滑街道になります。]

『尾張名所図会』 – 成海神社(「尾張名所図会. 前編 / 岡田啓,野口道直 撰 ; 小田切忠近 図画」 – 「 5巻 – 68p 」より)

宮宿東海道絵図(宮宿)

『尾張名所図会』 – 星の宮(「尾張名所図会. 前編 / 岡田啓,野口道直 撰 ; 小田切忠近 図画」 – 「 5巻 – 54p 」より)

『尾張名所図会』 – 星崎(「尾張名所図会. 前編 / 岡田啓,野口道直 撰 ; 小田切忠近 図画」 – 「 5巻 – 55p 」より)

[江戸時代星崎・前浜では良質な塩が生産されていした。生産された塩は、塩付街道から足助を経由して信州方面に運ばれた。塩付街道の通る御器所村の沢庵漬はこの塩を利用して盛んになった。  (「江戸時代の名古屋城下「星崎塩田」 – Network2010.org」より)]

『尾張名所図会』 – 笠寺其二(「尾張名所図会. 前編 / 岡田啓,野口道直 撰 ; 小田切忠近 図画」 – 「 5巻 – 59p 」より)

[図会は笠寺で、下に東海道が描かれています。]

『尾張名所図会』 – 笠寺縁起(「尾張名所図会. 前編 / 岡田啓,野口道直 撰 ; 小田切忠近 図画」 – 「 5巻 – 57p 」より)

[寺伝によれば、天平5年(733年、一部文書には天平8年 – 736年)、僧・善光(または禅光)が呼続の浜辺に打ち上げられた、夜な夜な不思議な光を放つ霊木を以て十一面観音像を彫り、現在の南区粕畠町にその像を祀る天林山小松寺を建立したのが始まりであるという。その後約200年を経て堂宇は朽ち、観音像は雨露にさらされるがままになっていた。ある時、旅の途中で通りかかった藤原兼平藤原基経の子、875年 – 935年)が、雨の日にこの観音像を笠で覆った鳴海家長・太郎成高の家に仕える娘を見初め、都へ連れ帰り玉照姫と名付け妻とした。延長8年(930年)この縁で兼平と姫により現在の場所に観音像を祀る寺が建立され、笠で覆う寺、即ち笠覆寺と名付けられたという。笠寺の通称・地名等もこの寺院名に由来する。  (wikipedia・笠覆寺より)]

『尾張名所図会』 – 蛇毒神社(富部神社)(「尾張名所図会. 前編 / 岡田啓,野口道直 撰 ; 小田切忠近 図画」 – 「 5巻 – 52p 」より)

『尾張名所図会』 – 塚田神社 龍泉寺(「尾張名所図会. 前編 / 岡田啓,野口道直 撰 ; 小田切忠近 図画」 – 「 5巻 – 49p 」より)

[図会右ページ、左下に山崎橋、右下に法泉寺が描かれています。山崎橋の架かる川は石川になっていますが山崎川になります。東海道は山崎橋で左に折れ山崎川に沿って進みます。左ページ中程右に龍泉寺、右ページ右上に塚田神社(津賀田神社)が描かれています。

『尾張名所図会』 – 姥堂 裁断橋 呼續濱舊蹟(「尾張名所図会. 前編 / 岡田啓,野口道直 撰 ; 小田切忠近 図画」 – 「 4巻 – 15p 」より)

[この絵には、江戸時代の裁断橋、姥堂などが描かれています。大正時代まで熱田区内には精進川が流れ、東海道には裁断橋が架けられていました。また、精進川を三途の川と見立て、橋のたもとには死者の衣服を奪い取る奪衣婆 (だつえば)をまつる姥堂がありました。橋の名の由来には、死者を閻魔大王が裁断する場という説もあります。1926 年に川が埋め立てられ橋は撤去されましたが、1953 年に近くの姥堂境内に縮小して復元されました。元の橋の欄干の擬宝珠 (ぎぼし)は名古屋市の文化財に指定され、名古屋市博物館に所蔵されています。そして、この擬宝珠の一つには、私財を投じて橋の架け替えを行った堀尾金助の母が、亡き子をしのんで書いたとされる和文の銘が刻まれています。1590 年 、18 歳の堀尾金助は小田原の戦いに出発しましたが、病に倒れ帰らぬ人となりました。裁断橋まで出征を見送った母は、翌年、供養のために裁断橋を架け替えました。その後、33 回 忌にも再度架け替えを行い、擬宝珠に刻まれたわが子に対する母の想いが人々に語り継がれました。  (「「裁断橋」でかねがね疑問に思っていたこと – 名古屋市」より)]

『尾張名所図会』 – 鈴之御前 松風里 正覚寺(「尾張名所図会. 前編 / 岡田啓,野口道直 撰 ; 小田切忠近 図画」 – 「 4巻 – 9p 」より)

[図会左ページに正覚寺、境内下に真乗院、右ページ正覚寺参道右に鈴御前、その前道が傳馬町通(旧東海道)、右ページ中央に精進川(新堀川)が描かれています。]
[鈴之御前社(れいのみまえしゃ)は熱田神宮の境外末社で、祭神は天鈿女命。地元では俗に「鈴の宮(れいのみや)」と呼ばれる。かつては精進川という川がこの宮のそばを流れており、東海道を往来する旅人が熱田に参拝する時はこの社で鈴のお祓いを受けて身を清めてから参拝する事になっていた。戦後、旧東海道に面した現在地に遷座した。  (「wikipedia・鈴之御前社より)]

『東海道五十三次保永堂版・宮-熱田神事』(wikipedia-photo)

[現在の愛知県名古屋市熱田区にあたる。宮とは熱田神宮のこと。ここでは毎年5月5日に馬の塔といわれる、近郊の村々から馬を奉納するという神事が行われていた。本図では、裸馬に荒薦を巻き、人々が伴走しながら献馬する、俄馬の場面を描いている。奥の藍染めの半纏を着た一群と手前の赤い有松絞の半纏を着た一群が競り合う迫真のシーン。人馬が通り過ぎるスピード感を強調するように、鳥居の左側部分だけが画面の中に収まっている。  (「東海道五拾三次之内 宮 熱田神事 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)宮 熱田濱之鳥居』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 四十二 五十三次 宮 七里の渡し 熱田の居 寝覚の里」(wikipedia-photo)

[桑名宿とは東海道唯一の海路である七里の渡しで結ばれていた。現在も、折りにふれて宮~桑名間を遊覧船で渡る現代版「七里の渡し」が行われる。
江戸時代中期以降は四日市宿へ直接渡る航路(十里の渡し)もよく利用された。  (wikipedia・宮宿より)]

『東海道五十三次(狂歌入東海道)宮』 「わたつみを 守れる神のみやの船 なみぢゆたかに こぎかへるみゆ 松の屋満俊」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 四十二 宮』、熱田の駅 七里の渡口(commons.wikimedia)

『尾張名所図会』 – 七里渡船着 寝覚里(「尾張名所図会. 前編 / 岡田啓,野口道直 撰 ; 小田切忠近 図画」 – 「 4巻 – 19p 」より)

カメラ北東方向が伊勢久という元脇本陣格旅籠屋で、上画中央左から4軒目に描かれている建物がそれに当たるとのことです。
[熱田は門前町としてよりも、むしろ宿場町として発展している。熱田宿には、大名や公家らが宿泊するための本陣が2軒、本陣に次ぐ格式の脇本陣が1軒おかれていた。なお、このほか最盛期には旅籠(はたご)が240軒以上もあり、宿場町としては東海道でも最大となっていた。  (「江戸と京を結んだ名古屋の『七里の渡し』─尾張の海の玄関口」より)]

『尾張名所図会』 – 築地楼上の遊興(「尾張名所図会. 前編 / 岡田啓,野口道直 撰 ; 小田切忠近 図画」 – 「 4巻 – 22p 」より)

[田楽 つき出しのはちのさかなも熱田がたみどころ多き宮の浜やき
築地楼上の遊興
 宮の遊里は神戸、伝馬、築出の3カ所あった。神戸、伝馬、築出の順番にランクがあった。特に一番ランクの高い神戸の中でも鯛屋、永楽屋、駿河屋は三大妓楼と呼ばれ、江戸末期の文化2年(1805)頃には江戸、京、大坂までその名が知られていた。   『史跡 あつた』より  (「築地楼上の遊興(つきじろうじょうのゆうきょう)」より)]

七里の渡しの航路図

東海道五十三次浮世絵(濱松宿-吉田宿)」    「東海道五十三次浮世絵(桑名宿-坂下宿・鈴鹿峠)