東海道五十三次浮世絵(桑名宿-坂下宿・鈴鹿峠)

桑名宿東海道絵図(桑名宿)
『東海道五十三次保永堂版・桑名-七里渡口』(wikipedia-photo)

[現在の三重県桑名市にあたる。から桑名までは海路で7里(約28キロメートル)の距離があり、そこを渡す船は「七里の渡し」と呼ばれた。海に大きく突き出た城は桑名城である。2艘の船は帆を降ろし、右下に見える陸地へ今まさに着岸せんとしている。船の帆柱の縦のラインと水平線および城の石垣による横のラインを軸に、手前に波に揺れ動く船、奥に整然とした海と堅牢な城を配して、全体的に調和のとれた構図が作り上げられている。  (「東海道五拾三次之内 桑名 七里渡口 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

桑名-七里渡口跡のカメラです。

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)桑名 海上七里ノ渡口』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 四十三 五十三次 桑名七里の渡舟」(wikipedia-photo)

『五十三次名所図会 四十三 桑名』、七里の渡舩(commons.wikimedia)

『東海道名所図会 桑名渡口』(「東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「桑名渡口・2巻 72p

伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [画]」 – 「桑名渡口 3巻 4p

[船着き場(御船場)におりるとすぐに鳥居があります。伊勢国の海からの玄関口として多くの参宮者がこの鳥居をくぐり伊勢路に入ります。現在は関の追分の鳥居と同様、外宮棟持柱が宇治橋鳥居(外側)で使用の後、ここ桑名の鳥居として使われています。  (「伊勢への信仰 – せんぐう館」より)]

[松寺の立場跡 
東海道松寺の立場跡は、現在の高橋酒造(株)店のすぐ南側辺りであったと思われる。
 街道を往来する旅人や人足などが、籠や荷物を降ろして杖を立て一休みしたところをいう。
 公の休憩所のことで茶屋などがあり、立場茶屋と呼んでいた。
 当時、桑名宿と四日市宿の間には、五ヶ所の立場があり、北は小向(おぶけ)の立場、南は富田の立場(富田小学校付近)があった。
  大矢知歴史研究会  (「三重郡朝日町・朝明橋~四日市・三光寺 | JINさんの陽蜂農遠 …」-「画像リンク」]」

『東海道五十三次(狂歌入東海道) 桑名 富田立場之図』 「乗り合いのちいが雀のはなしには やき蛤も舌をかくせり 楳の門鬼丸」 (当時、桑名藩領だった富田立場の様子(現在の三重県四日市市富田地区))(commons.wikimedia)

[「狂歌入東海道」と呼ばれるシリーズのひとつ。二軒の焼き蛤屋の店頭で蛤を焼いている。その薫りに惹かれたか、道行く者の一人は顔を振り向け、もう一人は、立ち止まって焼き上がるところを見ている。店内で休息をとる駕籠舁き二人の姿が印象的である。富田は日永とともに、宿場と宿場の間で旅人を接待する間の宿と呼ばれていた。当時の富田は桑名藩領であり、桑名の名物焼き蛤も売られていたようである。「京橋仙女香」の広告や、店横の門、その奥の風景など随所に興味深いものが描かれている。題名にある立場とは、もともと伝馬人足が休息する場所のことだが、この絵のように、駕籠舁きも集うほど賑やかになったところもある。棟の門鬼丸による狂歌は「乗り合いの ちいか雀の話には やき蛤も舌をかくせり」である。 (市立博物館学芸員・田中伸一)  (「東海道五十三次 桑名 富田立場之図 – 四日市商工会議所」より)]

伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [画]」 – 「富田焼蛤 3巻 6p

[富田の焼き蛤(とみだのやきはまぐり)は、四日市市富田地区の名物食品だった郷土料理である。江戸時代の桑名藩領朝明郡富田(東富田村・西富田村)の蛤料理で、桑名藩領であったため、「桑名の焼き蛤」と呼ばれるようになった。江戸時代は盛んであった「富田の焼き蛤」であったが、現在では焼き蛤料理は富田地区には存在しない。
桑名宿と四日市宿の中間には立場や間の宿といわれる立場茶屋があった。立場とは、元々は駕籠を担ぐときの杖を立てた所という意味で、駕籠かきや人足(荷物を運ぶ人)の休憩所をいう。桑名宿と四日市宿の中間には小向立場⇒松寺立場⇒富田立場⇒羽津立場⇒三ツ谷立場の5つの立場があった。富田の焼き蛤が焼き蛤の中では一番有名で、富田の焼き蛤を桑名藩領であった事から富田ではなくて『桑名の焼き蛤』という。『富田の焼き蛤』を詠んだ「蛤の焼かれて鳴くやホトトギス」の句は江戸時代に旅籠の尾張屋の店先で詠まれたとして有名で、現在その句碑が富田浜に残されている。  (wikipedia・富田の焼き蛤より)]

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「四日市桑名のあひだ富田おぶけの焼蛤 2巻 66p

[画像の右上の説明書きには、『四日市桑名のあひだ富田おぶけの焼蛤は名物にしてゆきゝの人もこゝに憩うて酒を勧めこれを賞翫す』とあります。「富田」は、小向(おぶけ)から、旧東海道を一里弱、南に向かった先にある、朝明郡東富田村(現四日市市富田)のこと。桑名~四日市間は三里八丁ありましたから、小向や東富田あたりの茶屋で休む旅人も多かったのでしょうね。どうやら酒も出していたようです。左中央の茶屋では、火鉢を道端に出して、女性が、蛤らしきものを、大きな団扇で煽いでいます。その女性の背後の板の間、膳の上の大皿も、やはり蛤でしょうか。左隣には、酒を入れる「ちろり」も見えています。  (「朝明郡小向村の焼蛤 | 地図を見ながら – Amebaブログ」より)]

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「桑名の海 2巻 67p

[桑名(現三重県桑名市)沿岸での漁のようすを描く。詞書には「冬より春に至るまで白魚を漁する事多し」と、この地の名産のひとつである白魚について書かれているが、絵に描かれている網漁は、鵜狩網、地方名で七人網とも呼ばれる網を使った、イナ(ボラの稚魚)漁のようすである。  (「さまざまな生業」より)]

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「多度山 2巻 75p

[三重県では伊勢神宮二見興玉神社椿大神社に次いで4番目に参拝者数の多い神社である。参詣のための街道沿いにあることから伊勢神宮との関係が深く、「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」とも詠われた。また俗に、北伊勢大神宮・多度大神宮などとも云われた。本宮と別宮は合わせて「多度両宮」と称される。  (wikipedia・多度大社より)]

四日市宿東海道絵図(四日市宿)
『東海道五十三次保永堂版・四日市-三重川』(wikipedia-photo)

[現在の三重県四日市市にあたる。三重川は現在の三滝川とみられ、左奥の集落の向こうに立つ帆柱からこの辺りがその河口付近であることが分かる。まず目に飛び込んでくるのは、風に激しく煽られる柳とその根元で風に翻弄される男の姿であろう。吹き飛ばされた笠をあわてて追いかける仕草と表情は何ともユーモラスである。画面右にも強風の中、慎重に歩を進める旅人の姿が見える。広重の作の中でも風の動きを着眼した珍しい作品といえる。  (「東海道五拾三次之内 四日市 三重川 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

[十里の渡し – 十里の渡し(じゅうりのわたし)は、かつて東海道の宮宿(愛知県名古屋市熱田区)と四日市宿(三重県四日市市)を結んでいた渡し。1601年(慶長6年)に徳川家康の認可を受けて誕生したとされる。ただし、熱田(宮宿)も四日市もそれ以前から港が開けており、徳川家康が江戸と上方を往復する際にもこの航路を使用したことが記録されている。宮宿と桑名宿を結ぶ七里の渡しに比べれば小規模であり、江戸初期には利用者も少なかったが、中期にかけては次第に利用者も増えていったとされる。そのため、四日市宿と利用者を奪われる形となった桑名宿との間でしばしば争いが起こった。1742年(享保2年)に桑名宿から道中奉行へ提出された願書では、公用及び諸大名の通行には七里の渡しが利用されているが、一般大衆は大部分が四日市渡(十里の渡し)を利用していると訴えている。  (wikipedia・十里の渡しより)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)四日市 参宮道追分之図』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 四十四 五十三次 四日市 日永村追分 参宮道」(wikipedia-photo)
[日永の追分(ひながのおいわけ) は三重県四日市市追分にある、東海道と伊勢街道の分岐点(追分)。現在は国道1号線の追分交差点となっている。東海道五十三次の四日市宿と石薬師宿の間の宿でもあり、旅籠や茶店があった。
日永の追分 – 京都から伊勢方面に向かい、右:東海道、左:伊勢街道・wikipedia-photo

ウィキメディアコモンズには、日永の追分の画像またはその他のファイルが含まれています。  (wikipedia・日永の追分より)]

『東海道五十三次(狂歌入東海道)四日市』 「梅か香に 袖ふりあふて 泊り村 つえつき坂を のぼる旅人 緑庵松俊」(commons.wikimedia)
[内部橋から杖衝坂へ向かう旅人の画]

『五十三次名所図会 四十四 四日市』、那古のうら 三重川(commons.wikimedia)
[題名の那古のうらは、現在の鈴鹿市長太ではなく四日市湊。「なごのうら」という地名は各地にありました。三重川とあるのは三滝川のことでしょうか。河岸に家が並び、橋の袂(たもと)に茶屋らしき店が見えます。立て掛けているのは簾戸であろうか。橋を渡る飛脚の姿は、夏の暑さを印象付けますが、水をたたえる川の青さがむしろ、画面に清涼感を与えています。茅葺屋根の色合いと、松林のある浜辺のシルエットが好対照です。湊に帆を下した船が所狭しと並び、沖にも数隻描かれ、交通の賑わいを感じさせます。東の空に朝焼けが延び、一日の始まりであることを教えてくれます。  (「[ID:405] 五十三次名所図会四日市・那古の浦三重川 : 資料情報 …」より)]

石薬師宿東海道絵図(石薬師宿)
『東海道五十三次保永堂版・石薬師-石薬師寺』(wikipedia-photo)

[現在の三重県鈴鹿市にあたる。遠景に大きく描かれた山々。そのなだらかな山容と色彩が美しい。山のふもとに見えるのが石薬師寺である。田んぼの畔道を突き当たると寺の立派な山門があり、その右手に宿場が広がっている。田んぼではすでに稲刈りが終わっており、周囲の木々が色づいていることからして、季節は晩秋から初冬あたりと思われる。時間帯は夕暮れであろうか、山里にはひと仕事終えたようなのんびりとした時間が流れている。  (「東海道五拾三次之内 石薬師 石薬師寺 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)石薬師』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 四十五 五十三次 石薬師」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)石薬師 問屋場ノ図』 「石薬師 瓦と黄金まく人は 瑠璃の玉とも 光る旅宿 友垣真連」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 四十五 石薬師』(国立国会図書館デジタルコレクション)

[源義経(みなもとのよしつね)の異母弟である範頼(のりより)は、平氏追討の際に先勝祈願のため桜の枝を逆(さか)さに地面にさしたところ、それが芽を出し立派な桜の木になったという伝承があります。この桜は範頼にゆかりのあるものですが、いつしか「義経桜(よしつねざくら)」とも呼ばれるようになりました。また、「石薬師の蒲桜(かばざくら)」とも呼ばれ、現在でも花を咲かせているようです。フィンセント・ファン・ゴッホの「タンギー爺さん」(ロダン美術館蔵-「タンギー爺さん」画像リンク)の背景には、いくつか浮世絵が模写されていますが、この画はそのうちの一つにあげられています。  (「展示資料解説 | 藤沢市藤澤浮世絵館」より)]

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「石薬師寺 2巻 61p

庄野宿東海道絵図(庄野宿)
『東海道五十三次保永堂版・庄野-白雨』(wikipedia-photo)
(拡大画像リンク)

[現在の三重県鈴鹿市にあたる。本シリーズの白眉の一枚。「白雨」とは夕立のこと。手前に置かれた急勾配の坂を必死に駆け登る駕籠かきと、転がり落ちるように下る旅人と農夫が描かれる。坂と直角に交差して降り注ぐ雨脚の描写、どす黒い雨雲を思わせる空のぼかし、雨の飛沫に煙る竹林の濃淡のシルエット、全てが激しい夕立の場面を見事に演出している。旅人の番傘に版元を示す「竹のうち」や「五十三次」とデザインされているのも面白い。  (「東海道五拾三次之内 庄野 白雨 | 歌川広重 | 作品詳細 – 東京富士 …」より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)庄野 人馬宿繼之圖』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 四十六 五十三次 庄野」(wikipedia-photo)

『五十三次名所図会 四十六 庄野』、「白鳥塚古跡」(commons.wikimedia)
[松並木の街道の風景と、長持(ながもち)を担ぐ人足が描かれています。長持には扇や傘や御幣(ごへい)などが取り付けられていることから祝い事の荷物と考えられます。
表題にある「白(しら)鳥塚(とりづか)」とは白鳥塚陵のことで、日本武尊(やまとたけるのみこと)の墓と言い伝えられているところです。死後に墓から白鳥となって飛び立ったという伝説にちなんで白鳥塚と呼ばれています。  (「五十三次名所図会 四十六 庄野 白鳥塚古跡(竪絵東海道) 歌川 …」より)]

亀山宿東海道絵図(亀山宿)
『東海道五十三次保永堂版・亀山-雪晴』(wikipedia-photo)

[現在の三重県亀山市にあたる。《蒲原 夜之雪》に次ぐ雪景の代表作。斜めに画面を二分する大胆な構図がとられ、画面の左側には、朝焼けに染まる中、塵一つない冬の朝の澄んだ空気が見事に表現されている。右側上方には亀山宿の入口で、崖の上に築かれた京口門が姿を見せ、そこを目指し、極端な勾配を登る大名行列が描かれる。白と黒のモノトーンで描かれた雪景色のなか、空と行列をなす人々に施された彩色が画面に生気を与えている。  (「東海道五拾三次之内 亀山 雪晴 | 歌川広重 | 作品詳細 – 東京富士 …」より)]

京口門案内板

[京口門跡
 亀山宿 の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に築かれた門である。
 『丸々五集』によれば、亀山藩主板倉重常 によって寛文一二年(一六七二)に完成したとされる。翌延宝元年(一六七三)に東町に築かれた江戸口門とともに亀山城 総構の城門として位置付けられ、両門の建設によって東海道が貫通する城下の東西が画された。
 京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。また、門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ不意の侵入を防いだとされる。
 大正三年、京口橋が掛けられたことで坂道を登る道筋は途絶えてしまったが、往時は坂の下から見上げると門・番所がそびえる姿が壮麗であったことから、
 亀山に過ぎたるものの二つあり伊勢屋蘇鉄に京口御門
と謡われるほどであった。
 歌川広重「東海道五捨三次」のち『雪晴』をはじめとする風景画の舞台として著名である。
平成二八年三月 亀山市]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)亀山』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 四十七 五十三次 亀山」(wikipedia-photo)

『五十三次名所図会 四十七 亀山』(国立国会図書館デジタルコレクション)

関宿東海道絵図(関宿)
『東海道五十三次保永堂版・-本陣早立』(wikipedia-photo)

[現在の三重県亀山市にあたる。鈴鹿の関は、畿内にある逢坂の関不破の関と並んで三関といわれた。本陣とは参勤交代大名が宿場で宿泊するところをいう。本陣には宿場の有力者の家があてられた。本図はその本陣を早朝に出発する様子を描いている。支度をする駕籠かきの表情が豊かで、手前の立て札の画面をはみ出す仕掛けも面白い。陣幕には定紋が張り巡らされているが、これは広重の実家、田中家の文字を組み合わせたものである。  (「東海道五拾三次之内 関 本陣早立 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

[東海道五十三次関宿の西端に“西の追分(にしのおいわけ)”があります。関宿には追分と呼ばれる場所が2か所あり、もう一つは宿の東端にある「東の追分(ひがしのおいわけ)」です。 
 “追分”とは、道が二つに分岐する場所のことで、東追分では東海道と伊勢別街道が、西追分では東海道と加太越奈良道(かぶとごえならみち)がそれぞれ分岐しています。
 東海道は西追分を抜けると坂下宿(さかしたじゅく)へ向けて西北に進み、鈴鹿峠(すずかとうげ)を越えて近江国滋賀県)に至ります。
 「加太越え奈良道」とは“加太峠を越えて奈良方面に向かう街道”の意味で、西追分から西に進み、加太宿、加太峠(亀山市加太)を越え、伊賀地方(三重県伊賀市)を経て大和国奈良県)に至ります。
 分岐点に大きな石碑が立っています。 この石碑は、元禄4年(1691)に谷口長右衛門が建立した題目塔と呼ばれるものですが、 「ひだりハいが やまとみち」と刻まれており、道標ともなっていました。  (「関宿西のおさえ “西の追分”」より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)関 旅籠屋見世の図』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 四十八 五十三次 関」(wikipedia-photo)
[画の位置は関宿東の追分で、鳥居がある方向が伊勢別街道になります。]

『五十三次名所図会 四十八 関 参宮道追分』
[関宿の東のはずれには伊勢参宮(さんぐう)道への追分がありました。この画はその追分を描いています。画面手前を斜めに走る平坦な道が東海道で、中央の鳥居から参宮道へと分かれます。この鳥居から伊勢(いせ)神宮の外宮(げくう)までは十四里(り)(約56km)でした。
画面上部に広がる空に、群れをなして飛ぶ鳥の姿が、また縦の空間に奥行きをもたせています。  (「五十三次名所図会 四十八 関 参宮道追分(竪絵東海道) 歌川 …」より)]

伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [画]」 – 「関の追分東海道参宮道 2巻 36p

[関は、東海道 47 番目の宿場で、交通の要衝として発展しました。宿場の全長は 1.8 ㎞あり、西の追分から大和街道、東の追分から参宮街道に分かれていました。場面は参勤交代で領地に帰る大名行列の様子が描いています。宿場には大名の宿場である本陣やお出迎えをする御馳走場がありました。また、神宮へ向かう参宮街道の入り口には鳥居が立っており、諸国から来た参宮者はいよいよ参宮街道に入っていきます。現在は式年遷宮が終わると、取り壊された御正殿の棟持柱(むなもちはしら)が宇治橋鳥居(渡った内側)になりますが、宇治橋鳥居のあとはこの関の鳥居として使われています。  (「伊勢への信仰 – せんぐう館」より)]

伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [画]」 – 「関地蔵堂 2巻 33p

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「関 地蔵院 2巻 56p

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「馬士の挑み合い 2巻 54p

[浅井了意は「東海道名所図会」の中で
  『馬士(うまかた)の挑み合ふは常にして、静かなるを変態とす。かたわらに終日(ひねもす)労する馬は、これを聞きながら眠りけるもまたおかし…』
 馬引き人夫たちが大声で言い争っているのはいつものこと、静かなのはかえって変だ。その争いのそばでは馬は悠々と居眠りをしている。騒がしく賑わってている往還の情景がよくわかる。  (「東海道の昔の話(24)」より)]

坂下宿東海道絵図(坂下宿)
『東海道五十三次保永堂版・阪之下-筆捨嶺』(wikipedia-photo)

[現在の三重県亀山市にあたる。画面左に見えるのは岩根山で奇岩や松、滝などで知られていた。山肌には流れ出す2条の滝が見える。室町時代狩野元信がこの山を描こうとしたが描き切れず、山間に筆を捨てたという謂れから筆捨山と呼ばれている。山と街道の間の窪みには鈴鹿川が流れているとみられる。街道沿いは茶店があり、山の見物に勤しむ客で賑わっている。遠景のなだらかな山のシルエットが筆捨山の奇抜さをより際立たせている。  (「東海道五拾三次之内 阪之下 筆捨嶺 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「筆捨山 2巻 51p

伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [画]」 – 「筆捨山 2巻 32p

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)坂の下 筆捨山眺望』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 四十九 五十三次 坂の下」(wikipedia-photo)

『五十三次名所図会 四十九 坂の下』(国立国会図書館デジタルコレクション)

葛飾北斎-諸国滝廻り『東海道坂ノ下清滝くわんおん』(wikipedia-photo)

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「坂下宿本陣 2巻 50p

[かつては難所・鈴鹿峠を控えた宿場町として賑わい、江戸中期には本陣3、脇本陣1を含め旅籠51軒、町並5町56間あり、宿場の範囲は河原谷橋から岩屋観音までの約1kmであった。戸数約150戸、人口500人あまりと記録される。鈴鹿馬子唄では「坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に」(大竹屋は坂下宿の本陣の1つで小竹屋は脇本陣であった。本陣である大竹屋に庶民が泊まるのは不可能だが、脇本陣の小竹屋には少なくとも泊まってみたいものだ。)と唄われ、旅籠や本陣も数多く東海道有数の盛況な宿であった。  (wikipedia・坂下宿より)]

伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [画]」 – 「坂の下 2巻 30p

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「鈴鹿社(片山神社) 2巻 49p

[滋賀県と三重県の県境にあたる国道1号の鈴鹿トンネル上に位置し、伊勢湾へと流れる鈴鹿川や琵琶湖へと流れる田村川を眺望できる鈴鹿峠にある。付近は豊かな水に恵まれた聖地であり、伊勢神宮へと向かう斎王が逗留して禊を行った鈴鹿禊の地で、後に巫覡の徒が祓えを行う神聖な地ともなった。江戸時代に刊行された『伊勢参宮名所図会』の「鈴鹿山」( 2 巻 – 23 )には、鈴鹿峠の鏡岩を挟んで伊勢側に鈴鹿神社が、近江側に田村明神が描かれている。「鈴鹿神社には片山神社、縣主の神社といった別名があった」と解説文に書かれている。  (wikipedia・片山神社 (亀山市)より)]

東海道五十三次浮世絵(御油宿-宮宿)」    「東海道五十三次浮世絵(鈴鹿峠・土山宿-石部宿)