東海道五十三次浮世絵(沼津宿-由比宿)

沼津宿東海道絵図(沼津宿)
沼津市川廓通りは旧国道1号線から狩野川沿いに上土へ抜ける小さな路地ですが、この通りが昔の東海道でした。

(「川廓通り (静岡県沼津市) 沼津城への道 – おでかけたいむす」より)

『東海道五十三次保永堂版・沼津-黄昏図』(wikipedia-photo)
[青い空の真ん中に、大きな満月が上り始め川面を照らす。その川沿いの街道をたどって行く旅人が後ろ姿で描かれる。前を行く二人は笠の下に布を垂らしているので、比丘尼と連れの小比丘尼と見られ、白装束に大きな赤い天狗の面を背負って後ろを行くのは金比羅参りであろう。道は疎林の辺りで左奥へと続き、橋を渡って白壁の土蔵が目立つ沼津三枚橋宿に到るらしい。広重はこの揃物で樹木はほとんど墨色で表現しているが、中でも当図は左側の森がこんもりと深く、右手前のやや明るい地面との対照を見せている。近景の針葉樹1本を空に高く描き、葉越しの満月にしているので、遠近が際立ち、天狗と少女の着衣の赤が効果的で、見る者も彼らの後ろについて画中を行く心地がする。  (「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道五拾三次 沼津・黄昏図/書誌の解題/抄録」より)]
[西の空に満月が上がるのは不自然だが、これも広重の構図を意識した作品で、描かれた場所は現在の大岡、当院から程近い街道沿いと思われる。この時代、狩野川に橋は架かっておらず、我入道の渡船は最近再現されたが、黒瀬にも明治時代まで渡しがあったそうだ。  (「東海道五十三次沼津宿 黒瀬の渡し」より)]

[旧黒瀬橋は、江戸時代から運行されていた大岡日吉と上香貫の黒瀬を結ぶ狩野川の渡しの位置に、明治14年(1881)に架けられた木橋を初めとする。  (「資料館だより – 沼津市」より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)沼津 名物鰹節を製す』(wikipedia-photo)

[沼津は、駿河湾からの豊富な魚介類に恵まれ、古代より水産加工業が盛んでした。現在の「かつお節」にあたる乾燥させた鰹かつおは、伊豆・沼津地域から平安京へ「貢進物(こうしんもつ)」として納められていた記録が残っています。戦国時代には、沼津の鰹節は、税として北条家へと納められていたようです。薪を燃やして魚を焙乾(ばいかん)する技術が広がり、香り高くうま味が凝縮した現在の「かつお節」とほぼ同様の物が誕生。沼津がこの頃 すでに鰹節の産地であったことが、安藤広重の浮世絵からわかる。  (「沼津「かつお節」~「さば節」 – 有限会社秋又水産」より)]

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 十三 五十三次 沼津」(wikipedia-photo)
[画右に沼津城(三枚橋城) が描かれているので、千本松原付近からの構図になるのではないかと思います。]

『東海道五十三次(狂歌入東海道)沼津』 「名にしおふ 沼津堤の花見酒 泥のごとくに 酔しひとむれ 東雲亭於喜保」(commons.wikimedia)
[沼津藩領境榜示杭(従是東)付近の画と思われます。]

『五十三次名所図会 十三 沼津』、足柄山不二雪晴(commons.wikimedia)

[足柄山(あしがらやま)とは通称で、金時山(きんときやま)の足柄山地を指します。足柄山の左向こうに富士山が見えます。下から黄色、水色、紺色と移り行く空と、白一色の雪景色によって静けさが感じられます。  (「資料検索 | 電子博物館・みゆネットふじさわ」より)]

黄瀬川橋から見た富士山、手前に愛鷹連峰。

原宿東海道絵図(原宿・間宿柏原)
『東海道五十三次保永堂版・原-朝之富士』(wikipedia-photo)

[原の宿を出てまもなく、湿地帯のような浮島ヶ原が広がります。ここから見る富士は、巨大で均整のとれた優美な姿をしています。山頂は画面からはみ出し、その高さを強調しています。旅人が足を止め、振り返って眺めたほどの去りがたい風景です。鍋鶴が田圃におりて、餌を求めているあたりは、昔の東海道ののどかさがうかがえます。  (「歌川広重 東海道五拾三次 – 原 朝之富士」より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)原 柏原立場ふじの沼』(wikipedia-photo)
[間宿柏原本陣の周辺に立場がある。ここには9軒の茶屋があり、浮島沼でとれたうなぎやなまずの蒲焼を名物に繁盛していた。  (「20-14 13-原宿ー14-吉原宿 – ウオーキングakitukasa – ココログ」より)]

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 十四 五十三次 原」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)原』 「けふいくか(今日幾日) 足よ腰よと あゆみ来て 見あぐる はらの不二の大さ 数寿垣」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 十四 原』、あし鷹山不二眺望(commons.wikimedia)

吉原宿東海道絵図(吉原)
『東海道五十三次保永堂版・吉原-左富士』(wikipedia-photo)

[現在の静岡県富士市にあたる。元吉原から吉原へ、田んぼの中を曲がりくねって続く松並木の街道は、富士の姿を左に見ることができ、「左富士」と呼ばれ、皆に親しまれた名所であった。馬に乗る3人の子どものうち、左の2人は眼前に見えてきた富士に気づき、夢中に見つめているが、右端の子どもは居眠りしているのか、頭を右にがっくりと垂れている。松の並木が迫り来るようなリズムを作り出し、画面に何ともいえない臨場感を与えている。  (「東海道五拾三次之内 吉原 左富士 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)吉原』(wikipedia-photo)
[三人の旅人が休む茶屋の店先に「名物山川志ろ酒」と書かれた看板が見えます。東海道を日本橋から数えて十四番目の宿場・吉原宿と隣の蒲原宿の間宿(あいのしゅく:宿場の間にある休憩所)である本市場(もといちば)。ここは 東海道ではめずらしい、富士が左側に見える「左富士」の名所。富士川左岸の豊かな水田地帯、加島平野でもち米を生産していたことから、このあたりは白酒が名物でした。白酒に「山川」とつけるのは、「山を流れる川の水が、泡立つと白く見える」ことから、 「山川酒」とか「山川白酒」とも呼ばれていたそうです。  (「浮世絵と名物-桃の節句にぴったりの「白いお酒」 – IPPIN」より)]
[鶴芝の碑 – この碑は、文政3年(1820)6月、東海道間の宿(旅人の休けい所)本市場の鶴の茶屋に建てられたもので、当時ここから雪の富士を眺めると、中腹に一羽の鶴が舞っているように見えたので、この奇観に、京都の画家蘆洲が鶴をかき、これに江戸の学者亀田鵬斎が詩文を添え、碑とした。市内では旧東海道をしのぶ数少ない貴重な文化財である。  (「鶴芝の碑標識」より)]

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 十五 五十三次 吉原 名所左り富士」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)吉原 左り富士ノ縄手』 「行来する 人のいく度 詠めても あしと思はぬ 富士はよし原 栄寿堂金信」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 十五 吉原』、不二の沼浮島か原(commons.wikimedia)

蒲原宿東海道絵図(蒲原)
『東海道五十三次保永堂版・蒲原-夜之雪』(wikipedia-photo)

[墨色の他はわずかな色使いのみで、深々と積もって降り止まない里の雪景を見事に表現し、評価の高い著名作。画面構成から見ると、右上がりの緩い坂道を左の崖で斜めに受け止め、あたかも傾いた枠内に遠景の雪山と家並みと変化のある三つの屋根が描かれているようでもある。この静寂な風景の中を行き交う三人がバランス良く配置され、それぞれが細かく描き分けられている。右方向に行く二人は、饅頭笠に桐油合羽を羽織った空脛の人物は小田原提灯を下げて元気に歩み、背を丸め紺の野良着に蓑笠を着けた年配者を先導するようである。一人坂道を左方へ下る人物は、唐傘をすぼめて風を防ぎ、手は袖に隠し、長めの杖を抱えるようにして、高歯を履いて小腰を屈めて歩を運ぶ姿から、寂しげな按摩の笛まで聞こえて来そうである。  (「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道五拾三次 蒲原・夜之雪/書誌の解題/抄録」より)]
※行書東海道、隷書東海道の絵図は岩淵の絵図になりますが、『夜之雪』図の場所についても岩淵付近とする考えもあるようです。岩淵は江戸時代には富士川の渡し場もあったことから、東海道の間の宿(吉原宿・蒲原宿間)として栄えた。岩淵には小休本陣常盤家住宅があり『夜之雪』図の場所を小休本陣常盤家住宅付近と想像してみました。ちなみに旧小休本陣常盤家(国の登録有形文化財)は 女優・常盤貴子の父親の実家でもあるとのことです。

小休本陣常盤家住宅前のカメラで、カメラ西方向に山陵があり、カメラ左が下り坂になっています。
[江戸時代を通し富士川の渡船役を務めた旧家で,主屋は,安政元年の地震後の再建という。間口8間,奥行5間半,切妻造の建屋の四方に庇を付ける。平面は,片側が土間で居室部は整形六間取を基本とする。岩淵宿で「小休本陣」として知られた上質の建物である。  (「国指定文化財等データベース(文化庁)」より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)蒲原 岩淵よりふじ川を見る圖』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 十六 五十三次 蒲原 富士川渡舟」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)蒲原』 「春風に 向て田村を すぎ行けば 真袖に匂ふ 梅にかん原 梅香居」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 十六 蒲原』、岩淵の岡より不二河眺望。間宿岩淵宿から眺めた富士川の渡しの情景。(commons.wikimedia)

由比宿東海道絵図(由比)
『東海道五十三次保永堂版・由比-薩埵嶺』(wikipedia-photo)

[現在の静岡県静岡市清水区にあたる。薩埵峠は峠に入る前の波打ち際で荒波にさらわれる旅人も多く、「親知らず子知らず」と呼ばれ、東海道の難所の一つとして知られていた。海に面した切り立つ峠を越える際、突然背後に現われる富士の姿に旅人は感動したという。駿河湾越しに見える富士が美しく、急勾配な峠の輪郭とそこに生えた松のフォルムが共鳴するかのように配される。海上に浮かぶ船の四角い帆も画面に一定のリズムを与えている。  (「東海道五拾三次之内 由井 薩埵嶺 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

[歌川広重の『東海道五十三次之内』(保永堂版)で由比宿の様子を見れば、そこにあるはずの峠道はただの断崖絶壁で、左上にいる三人の人物は、傾斜角45度の斜面から今にも転落しそうに描かれる。ここがいかに難所だったか、広重は緊張感あふれる大胆な構図で表現したのだ。
 難所だった薩埵峠を経ず、海岸線を安全に通行できるようになったのは、嘉永7年(1854年)の大地震で海岸が隆起してからだという。
 現代ではその狹い海岸線に大工事が繰り返され、東海道本線国道1号線、東名高速道路という、日本の大動脈が束ねられたようにして走っている。
 富士山の眺望ポイントとしての人気は海岸線でも絶大だが、駿河湾にせり出した薩埵山を中腹まで登って薩埵峠に立てば、広重の描いた絶景をこの目で見ることができる。峠には展望台も整備されている。  (「東海道一の絶景。今も昔も薩埵峠。 – するが企画観光局」より)]

薩埵峠展望台のカメラです。
 

薩埵峠 Google Map 画像(拡大画像リンク)

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)由井 かち渡りゆひ川の圖』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 十七 五十三次 由井」(wikipedia-photo)
[画右下に名物さざえの壺焼きと描かれている。サザエの壺焼きはおそらく当初は漁師の浜料理で、その起源は不明である。最初は、サザエをそのまま焚き火などに投入し、海水で塩味をつけるという程度の、シンプルで野趣あふれる料理だったものと思われる。現在のかたちに似たサザエの壺焼きは、江戸時代には登場していた。たとえば十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(1802年〜1822年にかけて出版)には、由比(静岡県)のあたりで「売るはさざえの壺焼きや」という言及がある。  (wikipedia・サザエの壺焼きより)]

[間の宿西倉沢 – 由比宿と興津宿の間にあり、薩埵峠の東側の登り口。ここからいよいよ険しい道に差し掛かる。薩埵峠エリアでは、富士山の眺めが最も素晴らしい場所で立ち寄る人も多く、茶屋が繁盛した。街道に沿った町並みが立場の雰囲気を残す。  (「間の宿西倉沢 – しずおか東海道まちあるき」より)]

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「薩埵峠東麓西倉沢茶店 – 4巻 65p

[左ページ下に望嶽亭が描かれています。
望嶽亭藤屋(ぼうがくていふじや) 
薩埵(さった)峠の東口のふもとにあり、その昔、脇本陣、茶亭として多くの文人墨客で賑わった所です。明治元年3月7日、幕臣精鋭隊長山岡鉄舟が官軍に追われた際に、望嶽亭の蔵屋敷で漁師に変装、隠し階段より脱出し、当時最新式フランス製十連発のピストルを残して行ったと言われています。当時と変わらない建物、部屋のたたずまいとピストルが歴史を物語っています。  (「望嶽亭藤屋 ぼうがくていふじや – するが企画観光局」より)]

『東海道五十三次(狂歌入東海道)由井 由井川』 「ふみ込は 草臥足も 直るかや 三里たけなる 由井川の水 結城亭雛機」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 十七 由井』、薩埵峠から眺めた駿河湾と富士山の情景。薩埵峠は難所として知られる。(commons.wikimedia)

  「東海道五十三次浮世絵(興津宿-嶋田宿)