東海道五十三次浮世絵(濱松宿-吉田宿)

濱松宿東海道絵図(濱松宿)
『東海道五十三次保永堂版・濱松-冬枯ノ図』(wikipedia-photo)
[濱松東外木戸内(中区中央3丁目)の東海道になります。]

[現在の静岡県浜松市中区にあたる。街道脇の大きな杉の木の根元で、焚火をしながら暖をとる旅人たち。焚火から立ちのぼる煙が黒から白へ変化している様子も良く捉えている。刈入れの終わった田んぼに立て札の立つ松林があるが、これは「颯々松」と呼ばれた旧跡で、その昔、将軍足利義教が松の下で酒宴を催した際に「浜松の音はざざんざ」と謡ったことで有名になったという。右奥に見えるのが浜松の宿場で浜松城の天守閣も見える。 (「東海道五拾三次之内 濱松 冬枯ノ図 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

[伝承では天慶元年(938)、八幡宮が現在の宮地に遷座した際、白狐が松の苗木を携えてこの地に導いたと伝わり、移し植えたその松が繁茂し颯々の松になったといいます。
松の木を浜から持ってきたので「浜の松」が転じて里の名を「浜松」とし、浜松の名称の起源になったと伝えられています。
また、永享4年(1432)に室町六代将軍足利義教公が富士山を見ようと下向の折、この松の下で宴を開き「浜松の音はざざんざ」(ざざんざは松が風に吹かれる音)と謡い、以後この松を「颯々の松」と呼ぶようになったとの伝承もあります。
「曳馬拾遺」に 颯々の松とは野口村の森をいう とあり、一本の松ではなく三十本余りの松が群生していたと記されています。
この松林の場所は当宮から東へ約百メートル離れた八幡宮の飛び社領地(現在の中区野口町・Google Map)となっていましたが、そこに「濵松名稱起源颯々之松」の記念碑が建てらました。
大正の頃には15〜16本の松が残されていましたが、昭和20年の空襲で全て焼けてしまい、その後、再び松が植えられました。
平成19年に石碑は野口公園に移されましたが、元来「颯々の松」は当宮遷座の由緒と関わりがあり、かつて社領地であったことから、平成23年3月に境内に移され、5代目の松が植栽されました。  (「境内の神社・史跡|浜松八幡宮」より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)浜松 ざざんざの松』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 三十 五十三次 はま松」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)濱松』 「春の日の 歩みも遅き 葦田鶴の 霞む姿や 千代の浜まつ 紀広持」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 三十 濱松』、名物ざざんざの松。足利義教が浜松森口で松のざわめく様を「ざざんざ」と謡ったことから、以後のこの辺りの松は「颯々之松(ざざんざのまつ)」と呼ばれる名所となった。(commons.wikimedia)

東海道名所図会』-遠湖堀江村舘山寺(3巻―63)

遠湖堀江村舘山寺(3巻―64)

[館山(たてやま)は、江戸時代後期まで周りを浜名湖の水面に囲まれていた島でした。現在では、埋め立てにより、庄内半島の基部とつながり、舘山寺温泉の一角として多くの観光客を集める湖岸きっての景勝地となっています。島であった館山が半島部と州によってつながり、往来できた状況が歌川広重の浮世絵によってうかがえます。館山は標高50メートル、周囲1400メートル、全山は珪岩によって形成されており、湖岸から見た秋の月は内浦の湖面に映え、また、松の影にかかり詩情豊か。このため、与謝野晶子北原白秋など数多くの文人墨客が訪れ、詩文を草し、歌を詠み、句をものにしています。館山とその周辺は秋月だけでなく、景勝の地が多く、江戸後期に著された『遠江古跡図絵』には「舘山八景」として紹介されています。また、『東海道名所図会』には「遠湖堀江村舘山寺」の図として館山を中心とした鳥瞰図が描かれており、山の頂に富士見岩が見られ、内浦を挟んで大草山が望まれます。  (「遠江八景 – 静岡県」より)]

舞阪宿東海道絵図(舞阪宿)
『東海道五十三次保永堂版・舞坂-今切真景』(wikipedia-photo)

[現在の静岡県浜松市にあたる。古来、浜名湖遠州灘とは砂州で隔てられた湖だったが、室町時代の大地震により湖と海を隔てていた砂州が決壊し、海につながる汽水湖となった。その決壊した場所を「今切れた」との意味で「今切」と呼ぶようになり、「今切の渡し」と呼ばれた渡し船が行き交うようになった。手前の並んだ杭は波除杭で遠州灘の荒波から渡し船を守るために幕府が築いたもの。この位置からも遠く富士を臨むことができる。  (「東海道五拾三次之内 舞坂 今切真景 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]
[東海道五十三次の宿場町・舞阪。「今切の渡し」の渡船場跡の常夜燈と石畳が往時のたたずまいをしのばせています。渡船場は利用する階層によって分かれ、北雁木は諸侯用、中(本)雁木は武家用、南雁木(渡荷場)は庶民や荷物の積み降ろしに使用されました。  (「まいさか歴史散歩|舞阪町紹介|舞阪町観光協会」より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)まい坂 今切海上舟渡』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 丗一 五十三次 舞阪」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)舞坂 今切船渡』 「揚雲雀 落る雲雀の舞坂を 横に今切る 舟渡しかな 桃実園雛寿喜」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 丗一 舞坂』、今切海上舟渡(commons.wikimedia)
[浜名湖(はまなこ)の東側、舞坂の渡し場近くを描いています。手前に見える杭は波除(なみよけ)と思われます。画面中央にそびえる小高い山は、実際にはなく、創作で描かれたものです。  (「資料検索 | 電子博物館・みゆネットふじさわ」より)]

[新居の地名の由来は、「明応7年8月の地震津波以前の湖口」の絵図によると、阿礼の崎(あれのみさき)に荒井の集落があり、舞坂は当時前沢と呼ばれていた。浜名川の浜名橋に橋本があり、東海道が交差した港湾都市であった。鎌倉時代には東海道の要衝として宿が置かれ、応永9年(1402年)には足利義満により橋本、天龍、大井、富士河、木瀬河は、今川泰範を「奉行職」として管理されていた。明応7年(1498年)8月25日に、明応地震が起こり、遠州灘沿岸は津波に襲われた。津波により浜名湖開口部が沈下し、今切口が決壊して、湖に海水が流入し、浜名湖は塩水湖となった。また、明応地震により橋本は壊滅し、住民は今切・新居地区(荒井)に移転した。また、翌明応8年(1499年)6月10日の暴風雨・大洪水によって湖口は破壊の度合いを増した。『遠江国風土記伝』など、浜名湖周辺における津波を記した史料は、何れも津波の日付を「明応八年六月十日」としている。さらに『岳南史』など、永正7年(1510年)8月27日に遠江国海嘯が襲い、今切はこの時に生じたとする史料も存在する。そのため、浜名湖の今切口を通過するための舞坂ー新居間を結ぶ渡船の今切の渡しが置かれた。

  (wikipedia・新居関所#背景と地名より)]

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「遠州濵名橋 3巻 60p

[東海道の通る浜名湖の出口には浜名川があり、ここに架かる浜名橋は歌に詠まれる程、有名であった。橋は、諏訪上下神社から対岸の松山新切当りにあったと言われている。浜名の橋の下流は、松山から白須賀あたりで遠州灘に流れ出て、河口は帯の湊と称されていた。浜名橋は、平安初期の歴史書『三代実録』によると、貞観4年(862)に修造され、その後、20年を経て壊れたので、元慶8年(884)に(天皇の命令)が発せられ、改修工事に遠江国の正税1万2640束の稲があてられた。これは、「遠江国浜名郡輸租帳」の浜名郡全体の額にも相当する大掛かりなものであった。橋は、長さ56丈(166.88m)・幅1丈3尺(3.87m)・高さ1丈6尺(4.77m)であり、当時としては大きなものであった。室町時代末期の永正7年(1510)に浜名橋は高波で破壊された。浜名湖も海とつながった為、その後、「古老曰ふ正保年間(江戸初期)橋柱を見たり、其跡は田と為る」と古書にある様に、再建されなかった。橋は、流失、破損、火事などで合わせて11回も修復を重ねたといわれている。  (「浜名の橋(中世の新居)」より)]

今切 3巻 61p

[左ページ下に荒井、対岸に前沢と記述されています。]

新居宿東海道絵図(新居宿)
『東海道五十三次保永堂版・荒井-渡舟ノ図』(wikipedia-photo)

[現在の静岡県湖西市にあたる。舞坂の渡し船「今切の渡し」を描いたもの。先を行く幔幕が張られた船は大名行列の一行を乗せた御座船である。時刻は夕刻頃と見られ、西の空が暮れようとしている。後続の舟には中間と呼ばれるお供たちが欠伸をしたり、身体を丸めて寝入る姿が見える。舟が向かう先に見えるのは新居の関所。この関所は幕府の直轄下にあり、取り調べが特に厳しいことで知られ、船着き場はこの関所の中に置かれていた。  (「東海道五拾三次之内 荒井 渡舟ノ図 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]
[新居関所は、現在よりも東の向島の地に建てられたが、元禄12年(1699年)に高潮被害のため西に移転した。そのため、浜名湖を通過するための舞坂ー新居間を結ぶ今切の渡船は、約4㎞近い長い航路となっていた。宝永4年(1707年)には宝永地震があり、静岡県西部の被害は大きく新居関所や白須賀宿、袋井宿、掛川宿、島田宿、浜松宿などで倒壊と津波の被害をうけた。新居では、宝永地震の被害は戸数665軒の、120軒流失し、1丈程(3m)の津波が3回あり、「関所跡かたなし」との記事が残っている。新居関所の津波による被害は『関守富永某手記』によると、「御関所潰れ津浪来ること丈計り」との記録が残されている。地震・津波のため新居関所は建物が全壊し流されたため、翌宝永5年(1708年)に更に西の現在地に移転した。新居関所の更なる移転により今切の渡しの航路がさらに長くなり不便になった。新居関所は移転後も浜名湖の湖口に面し、船着場も併設されていた。  (wikipedia・新居関所#高潮・地震の被害と関所の移転より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)荒井 海上壹り半 舟渡之図』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 丗二 五十三次 荒井」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)荒井』 「見渡せば 遠つあふみも なみだたで 名にしあらゐの 関も戸ざゝず 春霞亭波音」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 丗二 荒井』、渡舟着岸 御関所(commons.wikimedia)
[新居宿と関所、そして浜名湖(はまなこ)を鳥瞰的に描いています。画面奥には富士山も見えています。新居宿と舞坂宿をつなぐ航路は今(いま)切(ぎれ)の渡(わた)しと呼ばれ、浜名湖の南側を通っていました。浜名湖を行く舟が、画面手前から東岸の舞坂側まで連なり、画面の奥行きを演出しています。  (「詳細 – 資料検索 | 電子博物館・みゆネットふじさわ」より)]

[新居関所の建物は、宝永4年(1707年)の宝永地震の被害による移転され、安政元年(1854年)の安政東海地震の被害により、翌安政2年(1855年)12月の改築になる関所建物が現存している。母屋は南に正面を向いた平屋建てで、構造は入母屋造、屋根は本瓦葺である。形状は東西に長く、前面が「上之間」「中之間」「次之間」に分かれ、奥には「御書院間」「御用達場」「上番勝手台所」があった。さらに、「下番勝手同休息所」として桟瓦葺の3棟が取り付いていた。今日では「御用達場」と「上番勝手台所」の棟は失われており、それ以外にも部分的な改変の跡が確認されている。面番所は小学校舎や旧新居町役場として使用された時代に間取りが変更されており(役場として使用されていたときは図書館の建物も併設されていた)、1971年の解体修理で江戸時代の姿に戻すための工事も行われた。  (wikipedia・新居関所#新居関所の建物より)]

復元された新居関所前のカメラです。

白須賀宿東海道絵図(白須賀宿)
『東海道五十三次保永堂版・白須賀-汐見阪図』(wikipedia-photo)

[現在の静岡県湖西市にあたる。白須賀宿への道中、汐見坂からは遠州灘の絶景が臨まれた。手前の下半分を半円状にくり抜いたように丘陵を描き、その奥の坂道を大名行列の一行が列をなして進む。遠景には真一文字に水平線が引かれ、海上には大名行列と呼応するかのように舟が浮かぶ。行列の一行が担ぐ荷物の中の赤い2つの狭箱には、広重の「ヒロ」を表す紋様があしらわれており、こうしたさりげないところに広重の遊び心が垣間見える。  (「東海道五拾三次之内 白須賀 汐見阪図 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)白須賀 汐見坂風景』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 丗三 五十三次 白須賀 汐見坂」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)白須賀 塩見坂ノ圖』 「人真似に 我も喰はなん 白須賀の さるが馬場の このかしは餅 繁廼門雛昌」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 丗三 白須賀』、汐見坂風景(commons.wikimedia)

二川宿東海道絵図(二川宿)
『東海道五十三次保永堂版・二川宿-猿ヶ馬場』(wikipedia-photo)

[現在の愛知県豊橋市にあたる。猿ヶ馬場周辺は姫小松の景勝の地として知られ、奥まで見渡せるなだらかな平原にはこの姫小松が無数に繁茂しているのが見える。茶店の看板には「名物かしは餅」とあるように、この辺の名物はかしわ餅であった。道を行く3人の女性は、瞽女と呼ばれた盲目の女性たちで、彼女らは諸国を廻りながら三味線や琵琶を弾いて「瞽女唄」を披露して生計を立てていた。よく見ると3人とも各々楽器を持ち運んでいる。  (「東海道五拾三次之内 二川 猿ヶ馬場 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]
[猿ヶ番場は,白須賀宿(湖西市)の西続き,境川を隔てて三河国と境を接する遠江(とおとうみ)国境宿(さかいじゅく)新田(湖西市)に位置していた。東海道に面して茶屋が並び,柏餅が名物であった。古くは寛文元(1661)年の浅井了意著「東海道名所記」に猿ヶ番場の名物として柏餅の名が見え,幕府が天保14(1843)年の調査を基に編纂した「東海道宿村大概帳」にも「此宿内字猿ヶ番場にて柏餅を商ふ,是を世に猿ヶ番場の柏餅とて此所の名物なり」と記している。浮世絵師歌川広重が天保4(1833)年ごろ刊行した保永堂版東海道の二川宿の画題として,名物柏餅の看板の掛かる猿ヶ番場の茶屋を描いたことから,二川宿の名物が柏餅であるとの誤解を生む一因となった。 (猿ヶ番場(湖西市境宿) とは(豊橋百科事典より))]

静岡県湖西市境宿

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)二川 猿が馬場之圖』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 丗四 五十三次 猿が馬場」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)二川』 「女夫石 みるにつけても ふるさとは こひしかりけり ふた川の宿 東方垣真艶」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 丗四 二川』、猿か馬場立場(commons.wikimedia)

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「巌窟観音 3巻 55p

[東海道・二川宿(ふたがわしゅく/愛知県豊橋市)のはずれにある小山、岩屋山の頂に鎮座する聖観音立像が岩屋観音。明和2年(1765年)、豊川に架かる吉田大橋の架け替え工事を請け負った江戸下谷の大工たちが難工事打開に岩屋山上に祈願建立。その後、数多くの道中記や絵画の題材になって、東海道の目印となった観音像です。 (「岩屋観音(岩屋緑地) – ニッポン旅マガジン」より)]

吉田宿東海道絵図(吉田宿)
『東海道五十三次保永堂版・吉田宿-豊川ノ橋』(wikipedia-photo)

[現在の愛知県豊橋市にあたる。眼下の豊川に架かる豊川橋は長さ200メートルにおよび、吉田大橋とも呼ばれた。画面右に配されるのは吉田城の天守閣である、城には升目状に足場が組まれ、左官職人が壁の補修を行っている。上に目をやると場違いにも鳶職人が一人、遠くの景色を楽しんでいる。題材を手前に配置し、奥の景色と対比させる手法は、広重が得意とするものだが、ここでも画面に遠近感と興趣をもたらす絶妙な効果を生んでいる。  (「東海道五拾三次之内 吉田 豊川橋 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)吉田 豊川 吉田橋』(wikipedia-photo)

[もともと東海道は現在と違うところで豊川を渡っていたが、江戸時代に東海道が豊橋(吉田大橋)を渡るルートに定められ、江戸幕府がこの大橋を管理下に置いて天下橋となった。これが船町(下流)側の大橋(豊橋)のルーツである。これが昭和時代になり、国道1号の整備と共に大橋の東の酒井忠次が架けたとされる辺りにもう1つの大橋(吉田大橋)を架けた。これが八町(上流)側の大橋である。この時点で正式に、この東の八町の橋が吉田大橋(国道1号)、西の下流側の船町の橋が豊橋(愛知県道496号白鳥豊橋線)という名になった。  (wikipedia・吉田大橋より)]

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 丗五 五十三次 吉田 六月十五日天王祭」(wikipedia-photo)(豊橋祇園祭 – 吉田神社)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)吉田』 「もてなしは いかによし田の めし盛や しやくしづらでも うまくのむ酒 花垣市心」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 丗五 吉田』、豊川大はし(commons.wikimedia)

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「吉田 豊川 3巻 47p

[絵図右下に吉田城、豊川大橋左に吉田湊、対岸に聖眼寺が描かれ、聖眼寺右上に本坂越と記述されています。]

三州 吉田 天王祭 3巻 49p

[寛政 9 年 (1797) の 『東海道名所図会』 には 「三州吉田天王祭」 ( 3巻 – 48 )として次のようにある。
『牛頭天王祠 神明八幡宮共に御城内にあり。 天王祭、 例年六月十五日。
放花炮 六月十四日夜、 吉田本町上伝馬町の両町にて揚ぐる。 高さ十三間、 幅三間、 これを立物と
いふ。 これ過ぎて大花炮あり。 火の移らぬやうに大釜を覆にす。 これに火をうつす時は、 屋上に群
る人々濡筵を被く事多し。 其外町々の花炮数百ありて、 群集夥し。』
18 世紀末の吉田神社では、 天王祭の際、 高さ十三間、 幅三間の 「立物」 と称する放花炮 (はなび)が奉納されている。 立物の高さはおよそ 23 メートル、 幅 5 メートルになるが、 この高さが東新町でいう親柱の部分なのか、 背板の部分なのかは判然としない。 もしもこれが背板の大きさであるとすれば、親柱はさらに高くなり、 全体で見るとかなり大型のものになる。  (「愛知県新城市東新町「立物保 存会」の事例から – CORE」より)]

東海道五十三次浮世絵(金谷宿-見附宿)」    「東海道五十三次浮世絵(御油宿-宮宿)