東海道五十三次浮世絵(興津宿-嶋田宿)

興津宿東海道絵図(興津宿)
『東海道五十三次保永堂版・興津興津川』(wikipedia-photo)

[現在の静岡県静岡市清水区にあたる。奥に見える白浜に青松の景色は三保の松原である。その先には船の四角い白い帆が浮かぶ。興津川を渡るのは2人の力士たち。一方は人足が4人掛かりで担ぐ駕籠に乗り、もう一方は馬に乗る。江戸時代、相撲は勧進相撲と呼ばれ、寺社奉行の許可のもとで社寺への寄進や修復費用を賄う目的で開催された。力士の重さに手を焼く人足と馬の姿と、意気揚々とした力士の姿がほのぼのとした滑稽味を感じさせる。  (「東海道五拾三次之内 奥津 興津川 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

[東海道五十三次興津宿旅籠「岡屋」〈東海道興津宿割烹旅館 岡屋〉(岡屋旅館)-東海道五十三次の宿場町の、数少ない江戸時代から続く旅籠(東海道五十三次 最後の旅籠)。名物の興津鯛が食べられる割烹旅館。芝庭に数寄屋造の会席料理店としても営業を行なっている。  (wikipedia・興津より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)興津 田子の浦 清見が関』(wikipedia-photo)
[清見関(きよみがせき)は、駿河国庵原郡(現・静岡県静岡市清水区興津)にあった関所の名称。
跡碑のある清見寺の寺伝によると、天武天皇在任中(673年 – 686年)に設置されたとある。その地は清見潟へ山が突き出た所とあり、海岸に山が迫っているため、東国の敵から駿河の国や京都方面を守るうえで格好の場所であったと考えられる。清見寺の創立は、その関舎を守るため近くに小堂宇を建て仏像を安置したのが始まりといわれている。
1020年、上総国から京への旅の途中この地を通った菅原孝標女が後に記した更級日記には、「関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり(番屋が多数あって、海にも柵が設けてあった)」と書かれ、当時は海中にも柵を設置した堅固な関所だったことが伺える。
その後、清見関に関する記述は吾妻鏡平家物語の中に散見し、当地付近で合戦もおきたが、鎌倉時代になると、律令制が崩壊し経済基盤を失ったことや、東国の統治が進み軍事目的としての意味が低下したため、関所としての機能は廃れていった。
設置されたころから、景勝地である清見潟を表す枕詞・代名詞の名称として利用されてきたため、廃れた後もこの地を表す地名として使用された。  (wikpedia・清見関より)]

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 十八 五十三次 興津 清美がせき 清見寺」(wikipedia-photo)

『東海道五拾三次(狂歌入東海道)、奥津』「風ふけば 花にこゝろを 興津川 あさき瀬にだに 袖はぬれけり 年垣真春」奥津川の徒歩渡しの情景。(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 十八 興津』、おきつ川 さつたの梺。(commons.wikimedia)

清水港埠頭地図(「港湾施設 – 清水港」より)

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「/三保松原 三穂神社 羽衣松 4巻 49p

[左ページ中央右に三穂神社、右ページ中央左に羽衣松と記述されています。]

三保松原の鳥瞰カメラです。

江尻宿東海道絵図(江尻宿)
『東海道五十三次保永堂版・江尻-三保遠望』(wikipedia-photo)

[三保の岬を挟んで穏やかに広がる駿河湾に、多くの帆船が行き交う情景を俯瞰式に描いている。ただし、この構図もまた『東海道名所図会』の「久能山上望三保崎」を参考にしたことが早くから指摘され、その挿絵によって画面左の山塊は「愛鷹山」とわかり、中央やや右の山は「箱根二子山」とみられる。副題にある「三保」は右方から横に伸びている砂州の松原で、三つ叉に分かれる根元のあたりに「三穂神社」がある。広重は『東海道名所図会』に描かれている遠景の沼津や伊豆方面は省略し、近景の帆船を少し大きくして帆柱の林立した清水港の賑わいに変え、手前に人家の一村を描き添えている。この家並みは、司馬江漢江漢西游日記』などの記述を参考にしたようである。  (「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道五拾三次 江尻・三保遠望/書誌の解題/抄録」より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)江尻 清水之湊遠望』(wikipedia-photo)
[江尻宿西木戸口付近の画と思われます。]

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 十九 五十三次 江尻」(wikipedia-photo)
[三保の松原から、北北東方向駿河湾向こうに富士山を望む鳥瞰画です。]

カメラは江尻地区南側の鳥瞰カメラで、カメラ北北東方向に富士山。

『東海道五十三次(狂歌入東海道)江尻』 「花の旅 駕をつらせて ゆたゆたと うばが江尻に 見ゆる児ばし 花垣家寿子」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 十九 江尻』、田子の浦 三保の松原(commons.wikimedia)

府中宿東海道絵図(府中宿)
『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 二十 五十三次 府中」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)府中 二丁町廓之図』 「たび人も こひをするがの 二丁まち おもひはふじの 雪とつむらじ 绞月楼演子」(commons.wikimedia)

[二丁町遊郭は、駿府にあった遊郭。静岡市葵区駒形通五丁目付近で、現在は静岡県地震防災センターがある。
大御所徳川家康の隠居の地である駿府城下に造られた幕府公認の遊郭で、1万坪もの広大な面積を誇っていた。後にその一部は江戸に移され、吉原遊廓になった。蓬莱楼など代表的な遊郭は明治時代以降も続いたが、第二次世界大戦の静岡大空襲で焼失した。
天正13年(1585年)、徳川家康が終焉の地を求めたとき、今川家の人質として幼少から青年期にかけての多感な時代の大半を過ごした地であること、東西の要衝であること、家康がこよなく愛したと言われる富士山が目前であることから、駿府築城を開始した。築城時に全国から家康側近の大名や家臣をはじめ武士、大工方、人夫、農民、商人などが大勢集まっていた。その者達の労をねぎらうために遊女や女歌舞伎も多く集まっていた。しかし、彼女等を巡っての争い事が絶えず、ついには、大御所家康も見るに見かねて遊女と女歌舞伎の追放を命じた。そこに、老齢のため隠居の願いを出していた徳川家康の鷹匠である鷹匠組頭、伊部勘右衛門なる者が自身の辞職を理由に遊郭の設置を願い出ると、大御所家康は事の次第を察してか、その願いを聞き入れた。勘右衛門は現在の安倍川近くに1万坪の土地を自費で購入し、故郷である山城国京都府)伏見から業者や人を集め、自身も「伏見屋」という店を構えた。これが幕府公認の遊郭の始まりである。
後に、町の一部を江戸の吉原遊廓に移したので、残った町がいわゆる「二丁町」と呼ばれ、全国に知られた静岡の歓楽街になったのである。駿府城下には町が96か町あり、その内7か町が遊廓であった。その内の5か町分が江戸へ移り、残った2か町が二丁町の由来ともいわれる。『東海道中膝栗毛』にも登場する。
空襲で焼失し、今ではその名残すら見えないが、存在を確かめることができる稲荷神社が僅かながらにひっそり佇んでいる。  (wikipedia・二丁町遊郭より)]

『五十三次名所図会 二十 府中』、安部河みろく 二丁町。二丁町遊郭の錦絵。(commons.wikimedia)

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)府中 あべ川遠景』(wikipedia-photo)
[江戸時代初期、安倍川岸で、徳川家康が茶店に立ち寄ったところ、そこの店主がきな粉を安倍川上流(梅ヶ島)で取れる砂金に見立て、つき立ての餅にまぶし、「安倍川の金な粉餅」と称して献上した。家康はこれを大層喜び、安倍川にちなんで安倍川餅と名付けたという伝承がある。
実際は、江戸時代の日本では珍しかった白砂糖を使っている事から有名になり東海道府中宿の名物となった。『東海道中膝栗毛』には「五文どり」(五文採とは安倍川餅の別名)として登場する。
昔ながらの安倍川餅は、旧東海道の安倍川橋の東側(葵区弥勒二丁目)で製造・販売している茶店風の店が3軒ある。きな粉、小豆餡の安倍川餅の他、わさび醤油をつけて食べる辛味餅もある。  (wikipedia・安倍川もちより)]

カメラ東南東方向は文化元年(1804年)に創業した安倍川もちの老舗『石部屋』です。

『東海道五十三次保永堂版・府中安部川』(wikipedia-photo)

[安倍川の向こうに描かれたなだらかな山は特定し難い。あるいは『東海道名所図会』「草薙神社」(名所図会-草薙神社)の二つの岡を参考にしたかもしれない。蛇篭などもほの見せ、すやり霞によって横に二分する構図で、題名を天辺近く横一列に記したのもこの揃物中この一図だけである。東海道には、川越人足を雇っての徒歩渡し(かちわたし)のみが許される難所の河川が4つあり、この揃物にも広重は5宿に徒歩渡しを描くが、大名行列などを俯瞰した作品が多く、「府中」だけが一般人に視点を注いでいる。駕籠のまま平輦台に乗った娘の右に、平輦台に座る母親らしい婦人、左には肩車に乗る侍女らしい女、三人を運ぶ人足たちの後ろで肩車に乗っている印半纏の男は供人であろう。半纏に付けた「丸に竹」は版元「竹内孫八」の商標なのがほほえましい。彼らが雇った人足たちは、近景なので表情やしぐさも面白く描き分けられている。対岸からは駄馬を引く三人、荷物を頭に乗せたり状箱を掲げたりする五人がやって来る。  (「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道五拾三次 府中・安部川」より)]

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「安部川 4巻 38p

丸子 / 鞠子宿東海道絵図(鞠子宿)
『東海道五十三次保永堂版・丸子 / 鞠子-名物茶屋』(wikipedia-photo)

[現在の静岡県静岡市駿河区にあたる。松尾芭蕉の句に「梅 若菜 丸子の宿のとろろ汁」と詠われた丸子宿の情景。茶店には「名ぶつとろろ汁」との看板が立てかけられ、床几に腰を掛けた旅人が大きな口を開けて、名物のとろろ汁を美味そうに頬張っている。「お茶漬け」「酒さかな」の看板も掲げられ、店内には巻き藁に刺さった魚や干し柿も見える。背景のこんもりとした山は横田山である。本図は後摺りで「丸子」が「鞠子」と改変された。  (「東海道五拾三次之内 丸子 名物茶店 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

創業は戦国時代末期の1596年(文禄5年/慶長元年)で、以来400年間場所を変えずに営業している、とろろ汁の『元祖 丁子屋』前のカメラです。(wikipedia・鞠子宿より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)鞠子』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 廿一 五十三次 鞠子」(wikipedia-photo)

[「東路に筆を残して旅の空  西の御国の名どころを見舞」。江戸に絵筆を置いて、死後は冥土の名所巡りをしたいと願うこの句は、「東海道五十三次」をはじめとした名所絵を数多く手がけた歌川広重の辞世の句。「風景の叙情詩人」「霧と雪と雨の芸術家」などと評される広重にふさわしく、力みがなく、名所を得意とした浮世絵師として充実していたことを思わせる。今回取り上げた「鞠子」は、あたり一面の雪景色で静寂につつまれている。東海道五十三次に取り上げられる全五十五図(五十三の宿駅に起点である日本橋、終着点である京都三条大橋が加わる)は、さまざまな季節、天候、時刻で描かれている。一説では、広重は八朔御馬献上に同行し東海道を旅したと伝えられるが、幕府が宮廷に馬を献上したのは毎年八月。雪におおわれるような季節ではない。広重が皆に伝えたかったもの、それは、必ずしも実際の景色ではなく、広重が感じた情趣だったのではないだろうか。
(県立美術館学芸員・佐藤美貴)  (「丸清版・隷書東海道五十三次」より(鞠子)」より)]

『東海道五十三次(狂歌入東海道)鞠子』 「通りぬけ するかごもあり とまったり 神楽のきよくの まりこ宿とて 松園庵芝守」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 廿一 鞠子』、駅中名物とろゝ汁をひさく(commons.wikimedia)

岡部宿東海道絵図(岡部宿)
『東海道五十三次保永堂版・岡部-宇津之山』(wikipedia-photo)

[現在の静岡県藤枝市にあたる。画面左右から迫ってくる山の斜面の間を通る宇津之谷峠を農夫たちが行き交う。この峠道は桃山時代豊臣秀吉が整備し、後に街道として利用されるようになったという。道の脇には作られた水路を勢いよく流れる岡部川が描かれている。向こうから歩いてくる3人の中の奥の人物を上半身のみ描き、3人が急な峠を登ってきた様子を巧みに描写している。右側の山中に『伊勢物語』で有名な「蔦の細道」がある。  (「東海道五拾三次之内 岡部 宇津之山 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

宇津ノ谷集落周辺図(元図・Pdfリンク)(「美しいまちづくり推進地区「静岡市宇津ノ谷地区」 – わが街 …」より)

  
カメラ位置は旧東海道でカメラ初期設定方向右の川は岡部川の支流木和田川です、画像では見えませんがカメラ方向先で旧東海道から分岐する形で「蔦の細道」があります。

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)岡部 宇津の山之図』(wikipedia-photo)
[立場茶屋を主題にしている。この図に描かれているのは「上の集落」でも最も高い所にある上立場茶屋で、旅人に憩いの場を提供している。立場という施設が設けられた当初は飲食禁止であったが、時代か下るとその地域が名物とする力餅などや酒まで提供するようになった。ここ宇津谷集落の「上の集落」では家ごとに名物の十団子などを販売していたが、描かれている茶屋もその一軒である。柱には「うつの山 名物十だん子 立場」と書かれた看板が掛けられており、軒先(※画面上は看板の右)に吊るされた巻藁には串団子がたくさん差してある。その横に見える竿には糸を通した厄除けの十団子が吊るされている。赤子を背負った茶屋の女は縁台に腰かけた旅人に茶を差し出している。坂を上ってきたのは天秤棒を担いだ行商と巡礼者。下ってゆく人も見える。  (「wikipedia・宇津ノ谷峠#描かれた宇津山より)]

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 廿二 五十三次 岡部 宇津の山」(wikipedia-photo)
[やや俯瞰の構図を採っており、宇津の山のドーム形の峰を中央に大きく配している。峠道は弧を描き、行き交う旅人がぽつりぽつりと見える。多くは行商人、1人は渡世人である。  (「wikipedia・宇津ノ谷峠#描かれた宇津山より)]

『東海道五十三次(狂歌入東海道)岡部 宇津ノ山ノ圖』 「草臥てこしをうつゝの うつの山 岡部のやどに 夢もむすばず 春富亭満葉」(commons.wikimedia)

蔦の細道は奈良時代から存在する宇津ノ谷峠の古道で、この名称は伊勢物語に由来する。(commons.wikimedia)
[縦型版の利点を大いに活かしてほとんどが俯瞰で描かれているこのシリーズにあって、この一図もまた、大胆な俯瞰の構図を採っている。上段に宇津の山のドーム形の峰が大きく描かれ、周辺を雲が取り巻く様子で標高の高さを感じさせている。下段には峠道が描かれており、立場茶屋があることで往来の盛んなことを窺わせる。ここに示したとおり、広重は都合4度に亘って「岡部」の名を挙げて名所絵を描いているが、いずれも岡部宿を描くことなく宇津の山を取り上げている。  (「wikipedia・宇津ノ谷峠#描かれた宇津山より)]

岡部宿問屋場-カメラ東方向に問屋場(人馬継立)跡碑が設置されています。(問屋場跡 – Monumento(モニュメント))

藤枝宿東海道絵図(藤枝宿)
『東海道五十三次保永堂版・藤枝-人馬継立』(wikipedia-photo)

[現在の静岡県藤枝市にあたる。「人馬継立」とは運ばれる荷物の人足と馬が交代することをいい、本図はその様子が描かれている。右上の問屋場の役人が見守るなか、荷物の引き継ぎ作業が行われ、汗をふき、休みをとる者や荷物を積み直す者など、思い思いの姿が見られる。当時の風情を知れる興味深い図案である。人足が担ぐ荷物に立てられた名札には、版元の「保永堂」、馬のお腹には版元の主人、竹内孫八にちなむ「竹内」の文字が見える。  (「東海道五拾三次之内 藤枝 人馬継立 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

岡部宿問屋場(下り)-カメラ北方向『東海道五十三次保永堂版・藤枝-人馬継立』の画が看板になっています。

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)藤枝 瀬戸川歩行渡』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 廿三 五十三次 藤枝」(wikipedia-photo)
[藤枝宿東木戸門の東方向の東海道から、田中城を望む画と思われます。]

『東海道五十三次(狂歌入東海道)藤枝』 「口なしの 色をばよそに かしましく あきなふ妹が 瀬戸の染飯 清室真寿美」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 廿三 藤枝』、瀬戸川かち渡り(commons.wikimedia)

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「名産 瀬戸染飯 4巻 27p

[瀬戸の染飯は、強飯(こわいい/こわめし・蒸した餅米、おこわ)をクチナシ(梔子)の実で黄色く染めて磨り潰し、平たい小判形や三角形(鱗形)、四角形などにして乾燥させたものである。江戸時代には藤枝宿-島田宿間にある瀬戸の立場(休憩所)で売られていた。漢方医学では、クチナシには消炎・解熱・利胆・利尿の効果があるといわれ、また足腰の疲れをとるとされることから、難所が多い駿河の東海道を往来して長旅に疲れた旅人たちから重宝された。物語や和歌、浮世絵の題材としてたびたび取り上げられ、1792年(寛永4年)に西国を旅した小林一茶は藤枝で「染飯や我々しきが青柏」と詠んでいる。1797年(寛政9年)の『東海道名所図会』には染飯を売る茶屋の挿絵があり、葛飾北斎の1804年(享和4年)頃の浮世絵『東海道中五十三駅狂画』でも四角い染飯を売る茶屋の娘が描かれた作品(葛飾北斎-瀬戸の染飯)がある。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(1802年-1814年初刊)にも登場する。  (wikipedia・瀬戸の染飯より)]

嶋田宿東海道絵図(嶋田宿)
『東海道五十三次保永堂版・嶋田大井川駿岸』(wikipedia-photo)

[駿河側から眺めた景観を描いたこの大井川は、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」といわれたように、川幅も広く水量も多い川渡りの最大の難所でした。東海道にはいくつもの川がありましたが、幕府江戸の治安・防衛のため、あえて橋を作りませんでした。参勤交代の大名は、多くの家来と荷物の移動に難儀しました。  (「歌川広重 東海道五拾三次 – 嶋田 大井川駿岸」より)]
(拡大画像リンク)

[川越賃銭と越し方
大井川を渡るには、川札(川越札・油札ともいい、人足一人を雇うために札一枚が必要)を川会所で買い、川越人足に手渡してから、人の肩や連台に乗り川を越しました。
この川札の値段は、毎朝、待川越(まちかわごし)が水の深さと川幅を計って定めました。水深は股通とか乳通と呼び、股通の場合は川札一枚が四十八文でありました。

また、大井川の常水は帯通二尺五寸(約76センチ)で脇通四尺五寸(約136センチ)をこすと川留めになりました。川越しに必要な川札の枚数は次のとおりです。
1.肩車(かたくま)
川越人足の肩にまたがり越しました。川札は1枚。常水以上は手張(補助者)がつくので川札が二枚必要。
2.連台越し
(1)平連台(並連台)1人乗りの場合、担ぎ手4人で川札4枚と台札(川札の2枚分)の計6枚。
(2)平連台(並連台)2人乗りの場合、担ぎ手6人で川札6枚と台札(川札の2枚分)の計8枚。
(3)半高欄連台(半手すり二本棒)担ぎ手は、並台と同じ4人で川札4枚と台札(川札の4枚分)の計8枚。
(4)中高欄連台(四方手すり二本棒)担ぎ手10人、手張2人、台札(川札の24枚分)の計36枚。
(5)大高欄連台(四方手すり四本棒)担ぎ手16人、手張4人、台札(川札の32枚分)の計52枚。  (「大井川川越遺跡(おおいがわ かわごしいせき) – 島田市観光協会」より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)島田 大井川駿岸』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 廿四 五十三次 嶋田 大井川」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)嶋田』 「大井川 渡りいそげば 宿の名の 妹がしまだの 目にはとまらず 森泉亭広規」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 廿四 島田』、大井川駿岸(commons.wikimedia)

東海道五十三次浮世絵(沼津宿-由比宿)」    「東海道五十三次浮世絵(金谷宿-見附宿)