東海道五十三次浮世絵(金谷宿-見附宿)

金谷宿 東海道絵図(金谷宿)
『東海道五十三次保永堂版・金谷大井川遠岸』(wikipedia-photo)

[現在の静岡県島田市にあたる。大井川の遠州金谷宿側の岸の様子。川を渡る一行は小さく描かれるが、客人や人足一人一人の動きの細部まで描写されているのに驚く。渡り終えた人足たちの中には疲れ果てて寝転ぶ者までおり、当時の徒渡しの苦労が伝わってくる。同シリーズの「大井川駿岸」とともに大井川越えを題材とした図であるが、本図では遠景にごつごつとした山々やさらに遠くの山をシルエットで表すなど、河原のみを捉えた「大井川駿岸」の構図との描き分けを意識している。山の中腹に見える集落が金谷宿である。  (「東海道五拾三次之内 金谷 大井川遠岸 | 歌川広重 | 作品詳細」より)

[大名・庶民を問わず、大井川を渡河する際には川札を買い、馬や人足を利用して輿や肩車で渡河した川越(かわごし)が行われた。このため、大井川は東海道屈指の難所とされ、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠われた。もちろん、これは難所・大井川を渡る苦労を表現した言葉である。
なお、従来、幕府が架橋や渡船を禁じたのは、大井川を外堀として江戸を守る防衛上の理由が主だとされていたが、近年の研究では、昔の大井川は水量が多く流れも急だったため、架橋には向かなかった、川越による川会所や宿場町の莫大な利益を守るためであった、とも言われている。
1696年(元禄9年)幕府は川の両側に川会所を設け、渡渉制度の管理のために2名から4名の川庄屋を置いた。川会所は島田と金谷に設置され、それぞれ大井川を渡河する拠点の宿場町となり賑わった。川会所は江戸の道中奉行の直轄として、毎日川の深さを計測して江戸に飛脚で報告したほか、川越賃銭や渡河の順番の割り振りの運営にあたった。とりわけ洪水の際には川留めが行われた。水深四尺五寸(1.5 m)、人足の肩を超えると全面的に渡河禁止となった。川越人夫は島田に350人、金谷に350人が常時いた。大井川の川越人夫は雲助とは違い、藩府直参の下級官吏であったため、安定した職業でもあった。  (wikipedia・大井川#近世・近代の治水より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)金谷 大井川遠岸』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 廿五 五十三次 金谷 金谷坂 金谷駅 大井川」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)金谷』 「大井川 渡る金谷に 旅ごろも 雲と水とに 身をまかせけり 関口俊吉」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 廿五 金谷』、坂道より大井川眺望(commons.wikimedia)

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「菊川 4巻 16p

[図会は菊川宿の図で、流れる川は菊川、橋の右が菊川の辻になります。]
[現在の静岡県島田市菊川。 小夜の中山の東麓、牧之原台地の西麓に位置し、側には菊川が流れる。 江戸時代には東海道五十三次に指定されず間の宿となった(西は日坂宿、東は金谷宿)。  (wikipedia・菊川宿より)]

菊川宿 4巻 17p

[菊川の里は、金谷・日坂が東海道の宿場町として繁栄する数百年前の鎌倉時代の初期には既に名の通った「街道の要所」でした。菊川を有名にしたものの一つに「宗行卿」の故事があります。承久3年(1221)、承久の乱における鎌倉幕府覆滅計画に加わった中納言宗行(葉室宗行)は幕府に捕えられ鎌倉に護送される途中菊川に泊まり、宿の柱に辞世の詩を書き残しました。
「昔南陽県菊水 汲下流而延齢 今東海道菊河 宿西岸而失命」
昔は南陽県(中国)の菊水、下流を汲んで齢を延ぶ、今は東海道菊川の西岸に宿して命を失う。
またその110年後の、「元弘の変」[元弘元年(1331)]で同じ運命をたどった日野俊基が、ここで宗行卿の話を聞き哀歌を残しています。
「古も、かかるためしを菊川の、同じ流れに身をや沈めむ」 (太平記)  (「中納言宗行卿の「辞世の詩」と日野俊基の哀歌 – 島田市観光協会」より)]

日坂宿 東海道絵図(日坂宿)
『東海道五十三次保永堂版・日坂佐夜ノ中山』(wikipedia-photo)

[現在の静岡県掛川市にあたる。西行法師新古今集で「年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山」と詠ったことで知られる。その急勾配の坂は東海道の難所の一つであった。坂下の石は、金谷宿の夫を訪ねる途中に山賊に殺された妊婦の霊が乗り移ったとされ、夜中に泣き声が聞こえてくるとの謂れから「夜泣石」と呼ばれた。後に妊婦の赤子は村人に助けられ、飴で育てられたといい、以来「子育て飴」はこの地の名物になった。  (「東海道五拾三次之内 日坂 佐夜ノ中山 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

カメラ南東方向に夜泣石跡の石碑があります。

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)日阪 小夜の中山夜啼石 無間山遠望』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 廿六 五十三次 日坂 小夜の中山 夜啼石 無間山」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)日阪』 「あたらしく 今朝にこにこと わらび餅 をかしな春の 立場なるらん 倭園琴桜」(commons.wikimedia)

[日坂宿は、急勾配の坂が続く難所として知られる小夜(さよ)の中山(なかやま)峠の西側に位置します。この画は、その山道に立ち並ぶ茶屋の風景でしょうか。連なる茶屋の屋根や、駕籠(かご)引きが運ぶ駕籠が平行に描かれており、画面に奥行きが表現されています。  (「展示資料解説 | 藤沢市藤澤浮世絵館」より)]

『五十三次名所図会 廿六 日坂』、小夜の中山 無間山遠望(commons.wikimedia)

[日坂宿の東に位置する小夜(さよ)の中山(なかやま)峠という坂道には、「夜啼(よなき)石」とよばれる街道の名物がありました。画面手前から右側に伸びる山道の奥に、ポツンと描かれた丸い石がそれです。旅人たちが取り囲んで見物している様子もみえます。夜啼石には、山賊に殺されてしまった母親の霊が石に移り、毎晩泣き声を上げたという伝説があります。  (「五十三次名所図会 二十六 日坂 小夜の中山無間山遠望 – 電子 …」より)]

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「佐夜中山 4巻 12p

[左ページ下に夜啼(よなき)石」を眺める旅人が描かれています。]

掛川宿 東海道絵図(掛川宿)
『東海道五十三次保永堂版・掛川秋葉山遠望』(wikipedia-photo)

[現在の静岡県掛川市にあたる。掛川宿のはずれ、二瀬川に架かる大池橋の様子が描かれる。橋の向こう側から渡ってくる僧侶に老夫婦が頭を下げ、後ろの童子は空の凧に夢中になりおどけている。遠景には、火伏の神である秋葉権現が祀られている秋葉山が見え、手前にはその秋葉権現常夜燈が立っている。上空には丸凧が2つ見えるが、一方は糸が切れてしまったのか、空を浮遊し、もう一方は画面をはみ出るほど高々と舞い上がっている。  (「東海道五拾三次之内 掛川 秋葉山遠望 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)かけ川 秋葉道追分之圖』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 廿七 五十三次 懸川 秋葉山別道」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)掛川』 「秋葉てふ 道の名あれど 春風は 掛けし葛布 うらゝにぞ吹 鴟尾鳴陰」(commons.wikimedia)

秋葉街道案内資料Ⅳ

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「秋葉山 一鳥居 4巻 4p

[図会下に秋葉山の一の鳥居が描かれ、上の山が秋葉山になります。]

『五十三次名所図会 廿七 掛川』、秋葉道四十八瀬ごへ。秋葉詣の参詣者が四十八瀬(太田川上流三倉川)を越えて犬居へと向かうさまを描いた錦絵。(commons.wikimedia)

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「秋葉山社 4巻 5p

[江戸時代までは秋葉権現を祀(まつ)る秋葉権現社(あきはごんげんのやしろ)と、観世音菩薩本尊とする秋葉寺(しゅうようじ)とが同じ境内にある神仏混淆(しんぶつこんこう)の山だった。秋葉大権現について秋里籬島東海道名所図会』(寛政9年(1797年)成立)では「秋葉山大権現〔本堂の側にあり当山鎮守とす〕祭神大己貴命〔或曰式内小國神社〕三尺坊〔秋葉同社に祭る当山護神とす〕」と三尺坊とは異なる鎮守神とし、僧侶の編纂した「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」(享保2年(1717年))では三尺坊を秋葉権現であるとしている。実際には鎮守と三尺坊は混淆され、人々は秋葉大権現(あきはだいごんげん)や単に秋葉山(あきはさん)などと称し信仰した。  (wikipedia・秋葉山本宮秋葉神社より)]

秋葉山中の茶店 4巻 9p

[「秋葉山中の茶店」の描かれている場所は石打(現在の浜松市天竜区熊)で、石打では江戸時代椎茸栽培が盛んであったことが右ページに記述され描かれています。右ページ茶店左には、鳳来寺より秋葉山までの八里余りの山道を旅する一行が描かれ、その中で一人の女性が荷を背負い坂を下る様子が描かれています。この女性は大野(現愛知県新城市大野)と云う所の女性で、旅人一行の荷の運搬を請け負い、軽々と荷運びする姿が驚嘆されています。]
[「秋葉山中の茶店」では、山あいの道沿いに、日よけ兼雨よけの筵を棒で立てかけただけの簡素な店で、親父がひとり釜を火にかけている。その釜も、沿道の松の枝から吊り下げてある。休憩する客のための縁台は、木の枝に板を渡した素朴なもので、一見して、手近な道具で組み立てた仮設の茶店であることがわかる。店番の親父の足元には、藁の束と編みかけの草鞋がみえる。編みあがったものは店に吊り下げ、商品となる。常時出店していたものかどうか、近隣の村人による臨時の街道稼ぎだったとも考えられる。釜で湯を沸かしているだけであるから、ここで提供できるのは茶か白湯程度であろう。客のなかには、天狗面を持参した、いわゆる金毘羅道者とよばれる漂泊の宗教者の姿もみえる。  (「『東海道名所図会』にみる旅と飲食」より)]

鳳来寺 3巻 53p

[東海道御油宿から延びる街道は鳳来寺道と呼ばれるなど、秋葉山本宮秋葉神社と並んで、この地方では数多くの参詣者を集めた。
東海道名所図会には、煙厳山鳳来寺勝岳院(神祖宮 鎮守三社権現 六所護法神 開基利修仙人堂 常行堂三層塔 鏡堂 八幡宮 伊勢両太神宮 弁才天祠 天神祠 毘沙門堂 一王子 二王子 荒神祠 弘法大師堂 元三大師堂 鐘楼 楼門 名号題目石 八王子祠 妙法滝 奥院 六本杉 煙厳山 勝岳院 瑠璃山 隠水 高座石 巫女石 尼行堂 行者帰 猿橋篠谷山伏堂 馬背 牛鼻)と、詳細な記載がある。  (wikipedia・鳳来寺より)]

袋井宿 東海道絵図(袋井宿)
『東海道五十三次保永堂版・袋井-出茶屋ノ図』(wikipedia-photo)
[袋井宿東木戸跡]

[四方を丘に囲まれた袋状の土地に大きな井戸があったので袋井といわれています。宿場は原野谷川の北岸にあり、図は、そのはずれにあった出茶屋の様子を描いています。簡素な葦簀掛けの小屋で休息を取る飛脚や、茶屋の女房が茶を飲みながら楽しげに談笑するのどかな風景です。近景の濃い緑のぼかしが効果的で、遠景の田畑が広々と見えます。  (「歌川広重 東海道五拾三次 – 袋井 出茶屋ノ図」より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)袋井』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 廿八 五十三次 袋井 名物遠州だこ」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)袋井』 「せんべいの やうな蒲団を きせられて 客のふくれる 袋井のやど 豊林堂鄙住」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 廿八 袋井』、名物遠州凧(commons.wikimedia)

見附宿 東海道絵図(見附宿)
『東海道五十三次保永堂版・見附-天竜川図』(wikipedia-photo)

[現在の静岡県磐田市にあたる。天竜川の渡舟の様子が描かれている。天竜川の水は川瀬を2つに分け、東を大天竜、西を小天竜と呼んだ。画面手前が小天竜、奥が大天竜である。朝のまだ早い時間帯であろうか。遠景にはぼかしの技法を使い、朝霧にむせぶ天竜川の叙情をよく表現している。中州の向こうでは大名行列が何艘かの舟に乗り分けて、大天竜を渡り始めている。手前では渡舟を終えた船頭たちが一息つきながらその様子を眺めている。  (「東海道五拾三次之内 見附 天竜川図 | 歌川広重 | 作品詳細」より)]

[豊田地区池田は天竜川の左岸に位置します。古くから天竜川の渡船場として交通の要衝となっていました。古代から中世までの天竜川は、現在と違い台地のすぐ西側(現在よりも東)を流れていたことが紀行文などの記録からわかっています。つまり、古代の池田地区は天竜川の右岸に位置していたのです。江戸時代になると、度重なる洪水から地区を守るために、河川改良が行われ、現在の流れとなりました。
元亀元年(1570)、徳川家康は、交通の要所をおさえるため、池田に渡船を独占させ、諸役の免除などの特権を与えて、船頭を保護しました。さらに、『旅人は渡し船が難渋しても船頭を殴ったりしてはいけない。もしなぐった場合は、事の軽い重いにかかわらず死罪とする』などの定書を出しました。それがこの『遠州天竜池田渡船之事』です。この文書は現在市指定文化財となっています。徳川家康によって整備された東海道は、見付宿から中泉へ向かい、ここから西に折れ、池田へ向かいます。池田宿は、橋が架かっていなかった天竜川の川越の宿として、大名や旅人でにぎわいました。
現在、天竜川の堤防に天竜川渡船場跡の碑が立っています。河川敷には池田の渡船場を再現した池田の渡し公園があります。5月の連休に行われる『長藤まつり』では、渡船が再現されます。また、池田の渡し歴史風景館が整備され渡船の歴史を学べる場となっています。  (「文化財だより 第34号 – 磐田市」より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)見附 天龍川舟渡し』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 廿九 五十三次 見附 天龍川渡舟」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(狂歌入東海道)見附 天龍川船渡し』 「むかしたり 初てこゝに ゆびさして 見附の宿の ふじのいたゞき 朝霞庵於喜金」(commons.wikimedia)

『五十三次名所図会 廿九 見附』、天龍川舟渡(commons.wikimedia)

東海道五十三次浮世絵(興津宿-嶋田宿)」    「東海道五十三次浮世絵(濱松宿-吉田宿)