東海道分間延絵図(大津・大阪街道)

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大津街道は、大津宿伏見宿を結ぶ街道。東海道京街道、伏見通とも呼ばれる。 東海道の大津宿から京都中心部を通らず、髭茶屋追分から山科盆地を南下し、勧修寺から稲荷山の南麓に抜ける道(大岩街道)を通って京街道の伏見宿に至る街道。現在の滋賀県道・京都府道35号大津淀線である。これを南方から辿ると、伏見からしばらくは伏見街道を行くが、深草の藤森神社前で東に分岐し、現京都教育大学キャンパス東方の西福寺の角で再び北向きに転じ、JR奈良線を斜めに横切り小さな屈曲を経て大岩街道に合流し、これを東に辿れば山科勧修寺に至る。ここから山科盆地を北上し追分で三条大橋を起点とする東海道に合流する。
大津宿までの東海道と大津街道、伏見宿から大阪までの街道を近年は総称として東海道五十七次(伏見宿、淀宿枚方宿守口宿を加える)とすることもある。参勤交代の西国大名が都に入り朝廷と接触することを嫌って、江戸幕府が造ったとされる。藤森神社の鳥居には後水尾天皇勅額が挙げられていたため、社前では参勤交代の大名も下馬・一礼しなければならなかった。  (wikipedia・大津街道より)

大坂街道は起源は奈良時代より存在する古道であった。それを1594年(文禄3年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が、1596年(文禄5年)2月に毛利一族に命じて淀川左岸に「文禄堤」として街道を整備し、後に京街道と名を変えた。
大坂・高麗橋江戸時代は京橋)から淀川左岸を通り、木津川(旧河道)に架かっていた淀大橋を渡ってに至る。宇治川(旧河道)に架かっていた淀小橋を渡った後、桂川左岸を通り東寺口に至る鳥羽街道と宇治川右岸を通り伏見に至る淀堤に分かれた。
大坂 – 伏見間は、五街道の一つである東海道の延長区間として道中奉行の管轄下に置かれ、江戸方より順に伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4つの宿場が設けられた。淀宿と枚方宿の間の橋本には遊廓を持った間の宿も設けられていた。  (wikipedia・京街道_(大坂街道)より)

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