東海道分間延絵図(大阪)

絵地図初期設定画面に「森小路村」、「今市村」、「貝脇村」、「馬場村」、絵地図を右にスクロールすると「上辻村」、「土居村」と記述されています。
[明治18年(1885年)-大枝村・馬場村・世木村が合併して高瀬村となる。
明治22年(1889年)4月1日 – 町村制の施行により、 高瀬村、東橋波村、西橋波村、寺方村が三郷村(現・守口市)となる。守口町、土居村が守口町(現・守口市)となる。  (wikipedia・茨田郡より)]
[明治22年(1889年)4月1日 – 町村制の施行により、森小路村、南島村、千林村、今市村が古市村(現・旭区)となる。馬場村、上辻村、貝脇村、別所村、般若寺村が清水村(現・旭区)となる。  (wikipedia・東成郡より)]
(今昔マップ on tha web)

絵地図初期設定画面に「関目村」、「南島村」、絵地図を右にスクロールすると「森島村」、「森小路村」と記述されています。
[明治22年(1889年)4月1日 – 町村制の施行により、 野江村、関目村(現・城東区)、内代村(現・都島区)が榎並村となる。  (wikipedia・東成郡より)]

絵地図初期設定画面に「善源寺村」、「野江村」、「内代村」、絵地図を右にスクロールすると「内代村 野江村 入会」、「中村」、「関目村」、「南島村」と記述されています。
[明治22年(1889年)4月1日 – 町村制の施行により、沢上江村、善源寺村、中野村、毛馬村、友淵村が都島村(現・都島区)となる。中村、荒生村、江野村(野江村)、赤川村が城北村(現・旭区)となる。  (wikipedia・東成郡より)]

絵地図初期設定画面中央左端に京橋が描かれ、絵地図を右にスクロールすると「野田村(現・都島区、城東区)」、「沢上江村 野田村 入会」、「善源寺村」と記述されています。

絵地図を右端までにスクロールすると中央右に京橋が描かれ、そこの左方向天満橋天神橋難波橋、天神橋と難波橋の間・淀川下に八軒家と「三十石船」船着き場(八軒家船着場)が記述され、堂島川大江橋渡辺橋田蓑橋玉江橋土佐堀川栴檀木橋(せんだんのきばし)、淀屋橋肥後橋筑前橋常安橋越中橋湊橋が描かれています。また、大阪市中の下方向、東横堀川の上から三つ目の橋が高麗橋になります。
渡辺橋の名称は古代から中世の文献にも見られるが、当時は現在の橋とは異なる位置にあったとされ、古代~中世文献における渡辺橋の正確な位置もはっきりしない。肥後橋は江戸時代を通じて架橋地点は現在と異なり、西横堀川東岸の横堀筋北端から中之島へ架かっていた。筑前橋は江戸時代初期 最初の橋が架橋され、江戸時代を通じて、架橋地点は現在地より一筋上流側だった。湊橋はもとの架橋地点は少し上流側だったが、更正第一次都市計画事業による江戸堀福島線の敷設に伴って、まず、当橋と対になる上船津橋(堂島川)が1936年(昭和11年)に架橋され、当橋も1940年(昭和15年)に現在の位置に架け替えられた。
(今昔マップ on the web)

絵地図を右にスクロールすると中之島が描かれ、そこの左上の橋が船津橋で、船津橋の右下が湊橋になります。
船津橋は貞享・元禄年間に行われた堂島新地の開発の一環として堂島川に架けられた5つの橋(大江橋、渡辺橋、田蓑橋、堀江橋、船津橋)のうち最下流に位置し、北詰が中州としての堂島ではない唯一の橋である。最初の架橋は元禄中期以降と思われる。当初は湊橋(土佐堀川)と対になる位置に架けられていたが、のちに下福島村および野田村の集落へ至る道に連絡する、中之島の西端付近へと架橋地点が変更された。『地方役手鑑』、『堂島旧記』によると江戸時代の船津橋は、四三間半一尺(86m)、幅員二間(3.9m)の規模だった。

          東海道分間延絵図(守口)